昨日の毎日新聞朝刊に載っていた宗教学者・山折哲雄さんへのインタビューが気になってまた引っ張り出してきました。
「昭和1桁世代の弔い合戦」というタイトルの記事で、言葉の陰影が取り払われていること、菊池寛の『恩讐の彼方に』と『ある抗議書』、「死の再定義」と「死の規制緩和」など興味深い話題ばかりが語られていますが、特に印象に残ったのは最後の部分。
ここで山折さんはインタビュアーでる小国綾子さんに「ところで、あなたは〈無宗教〉ですか」と問いかけるのです。
肯定の返事を聞いた山折さんは、今度は「では『宗教心はないのか?』と問われればどうですか。違和感を感じるでしょう?」と問いを重ねるのです。
そしてその理由について、次のように語ります――
- 日本人が「無宗教」という時、それは特定の宗教や宗派を信じていないということに過ぎません。むしろ「無の宗教」であると言えます。宗教心は普遍的なもので、多くの人が心の底で持っている。いや、宗教心を大事にする人ほど特定の宗教を信用しないようなところが日本人にはあるのです。
これを読んで、「ああそうなのか!」と膝を打ちました。自分の「無宗教」もまさにこれなのではいか、と。
この場合の「無」とは、関心がない、関係をもたない、ということではなく、大切なことだと思うけど、それゆえに既存のものに心をゆだねることができない――という意味なのですね。ニヒリズムではなく、豊穣を求めてあれこれ探っているという意味での「無」。
こんな考え方ができることに驚き、救われる思いがしました。
山折さんは政治の「無党派層」にも同様のことが言えて、「日本人には、世間やメディアでいう善悪や正邪の評価がどこかうそっぽいと感じる感覚が潜んでいます」と指摘します。
こうした「無」の感覚を大事にしたいと思います。ネットが炎上しやすい昨今はなおさら。
このインタビューはWebの「毎日新聞」では有料記事となっていますね → 「2022年にのぞんで 昭和1桁世代の弔い合戦 インタビュー 宗教学者・山折哲雄」。