惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

冬の星座

2006-01-24 20:16:48 | 日記・エッセイ・コラム
 昨日が締切だった原稿をなんとか仕上げて、夕方、メール送稿。担当者様、すみませんでした。

 その後、いつもの散歩に出かけようとしたのですが、家から一歩出てすくみあがる。風がやたらに冷たいのです。
 仕事場は南の窓から陽が射しこんでポカポカと暖かいので、こんなことになっているとは思いもよりませんでした。

 おまけに日陰には土曜の雪がまだ残っていて、昼間溶けかけたのがまた凍ってツルツルのアイスバーン状態。危なくてしょうがありません。昼間、日が当たって雪がなくなっている道を選んで歩きました。
 しかし、風が冷たいぶん、暗くなった空に輝く星がきれい。東の空には、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウスからなる「冬の大三角」が昇ってきたところ。その北側には土星、南側には火星が、ともに赤い光を放っています。「冬の星座」を歌いたくなりますが、歳をとると音程が狂ってくるんですね。自分でも恥ずかしい音痴ぶり。いやだなあ。


『黒いアテナ』

2006-01-23 20:54:47 | 本と雑誌

 ついにライブドア社長らが逮捕されましたか。
 今だからいうというわけではないのですが、もともと私はこの会社のあり方を胡散臭く思っていました。こんなやり方をする人たちには近づきたくないものだ、と。
 しかし、法に触れることになるとまでは考えていなかった。事件にしたということは、彼らのやり方は日本の資本主義の倫理を危うくすると、検察が判断したからなのでしょうね。犯罪として立件するか否かは、検察の裁量にかかっている部分が大いにあると思います。
 考えてみれば、これはこれで恐ろしいものがあるのですが……。

 マーティン・バナールの話題の書『黒いアテナ〈上・下〉』(金井和子訳、藤原書店)をようやく読了。
 ややこしくて、しんどかった。でも、それを上まわる面白さがありました。

 なんといっても常識をひっくり返そうとする試みですからねえ。ヨーロッパ文明の源であるギリシア文明はエジプトの植民地としてスタートしたという主張は、ヨーロッハの東端であるとはいえ、ギリシアはヨーロッパの内部であり、ヨーロッパ人によって独自に発達したヨーロッパ固有の文明なのだというヨーロッパ人の「誇り」を打ち砕いてしまう。

 バナールの主張がどこまで妥当なものなのか、私には判断しかねますが、この本によっていくつもの疑問が解けるような気がするのも確か。
 たとえば、『魔術師大全』を書いた時、ピュタゴラスやアポロニウスなど古代の哲人が必ずエジプト詣でをするのはなぜかと思っていたのですが、奈良・平安時代の遣隋使・遣唐使のようなものだったと考えればストンと納得できます。
 あるいは、ローマ時代、イシス神信仰が一般的だったのも、辺境から流入したもの珍しい宗教だったからというより、彼らの文明のおおもとを尊重したからだと思えば、これまた納得。
 これからも何かあるたびに、あちこち開いて読み直すことになると思います。


「いただきます」

2006-01-21 20:21:25 | 日記・エッセイ・コラム
 一日、雪。朝、起きた時にはもうすでに積もっていました。
 お昼には、場所によっては10センチぐらいも。その後もずっと降りましたが、湿った重い雪のせいか、積雪量はそんなに増えなかったみたいです。
 明日の朝、道路は滑りやすいでしょうね。どうぞ、ご用心を。

 「いただきます――って言ってますか?」という毎日新聞家庭欄の記事に仰天する。
 給食費を払っているんだから「いただきます」と言わせないでほしいという発想は、私には想像もつきませんでしたねえ。特に感謝する必要はないというのでしょうけれど、感謝したら損をするとでも思っているのかしらん。

 そもそも「いただきます」という言葉を、食事を作ってくれた人に対するお礼の言葉だと、皆さんは考えているのでしょうか?
 私はちがうなあ。食事を始めるための単なる挨拶。だから自分で用意して自分で食べる時も「いただきます」といいます。

 まあ、どこかに感謝の心は入っているとは思います。でも、それは私たちを生かしてくれている一切のものに対する漠然としたものでしょう。特定の人にお礼をいっているわけではない。
 深い意味はないにしても、何かに区切りをつけ、すっきりした気分になる――挨拶ってそういうものですよねえ。


誤植

2006-01-20 20:20:15 | 日記・エッセイ・コラム

 今日、読んでいた翻訳本の中に「穏暖な気候」という表記がありました。「温暖な気候」のことでしょうね。

 誤植にしても、これはちょっと珍しい。原稿が「穏暖」になっていた可能性が高いと思われますが、だとすると訳者は原稿を手書きしているのでしょうか。パソコンやワープロでは「穏暖」と変換させる方が難しい。
 訳者は1934年生まれなので、今年71歳か。キーボードを使わない可能性も十分ありえます。

 ――と、ここまで書いて考えてしまいました。もしそうだとすると、訳者は意図的に「穏暖」という言葉を使った可能性が高いのではないか。「穏暖」という表記もありえる?
 気になってきたので、漢和辞典を2種類引いてみした。が、やはり載っていません。誤植といっていいのでしょう。

 ちなみに、この本ではこの件を含めて3個所の誤植に気がつきました。これだけあると、編集者や校閲者の力量を疑います。
 1箇所なら「ま、よくあること」。2箇所だと「おや、大丈夫か?」となり、3箇所以上は「ひどい」と思ってしまう。間違いは誰にでもあることとはいえ、極力減らしていただきたいもの。だから私は原稿の表記にあれこれ注文をつけてくる編集者の方を信頼するのです。

  「ベストSF2005」、nyamさんの投票。ありがとうございました。
 他の方もこぞってご投票ください。要領はこちら


犬嫌い?

2006-01-19 20:48:57 | 日記・エッセイ・コラム
 風邪からは、ほぼ快復。夕方の散歩も再開しました。
 今日は北風がやけに身に沁みましたが、外の空気に触れると晴れ晴れします。健康がいちばん。

 このところ気になっているのは、ル・グィンさんは犬が嫌いなのだろうかということ。
 というのも、先日触れた『なつかしく謎めいて』(谷垣暁美訳、河出書房新社)に口をきく犬たちが出ているのですが、彼らについてある登場人物が次のようにコメントしています――

「犬たちの話は信じられないほど退屈。延々としゃべり続けるの。交尾の話と糞の話と臭いにおいの話。臭い話、糞の話、交尾の話。でなかったら、あんた俺好きかい、あんた俺好きかい、あんた俺好きかいってそればっかり。話す犬には我慢がならないわ」

 別にル・グィン自身のセリフではありませんし、この人物も「しゃべらない犬」については評価が高い。だいいち、フィクションなんですからねえ。
 とはいうものの、実に辛らつな表現。犬がしゃべる内容についてこんなふうに考えられる人がいるのは、少なからずショックでした。

 『空飛び猫』の作者ですから、ル・グィンが猫好きなのはわかります。しかし、犬についてはどうなのかなあ……と、このくだりを読んで考えてしまったしだいです。