船村徹さんが亡くなられたことで、演歌について、少し考えました。
日本の流行歌でいえば、もともと演歌は存在せず、ジャズを起源とするジャズ歌謡の方が幅を効かせていました。二村定一さん以来、ラジオやレコードではこちらが本流。古賀政男さんにしても「影を慕いて」や「丘を越えて」など、初期の曲は洋楽系です。
演歌がジャンルとして成立したのは、村田英雄さんの「王将」、畠山みどりさんの「恋は神代の昔から」、美空ひばりさんの「柔」などがヒットしてからでしょう。1960年代に入ってからのことです。
「王将」を作曲した船村さんは、演歌のど真ん中にいた人ですが、1955年、春日八郎さんが歌った最初のヒット曲「別れの一本杉」を聴くと、どこか田端義雄さんふうでもあります。田端さんの歌は民謡と洋楽をミックスしたような不思議な世界ですよね。
おそらく、村田さんや三波春夫さんなど、浪曲出身の歌手がいたことが演歌成立の大きな契機になったのでしょう。でも、それだけではなく、船村さんが「栃木弁で作曲」したといわれているように、日本の大衆的心情をそのままぶつける歌づくりの姿勢も、演歌の性格を決定したことは間違いありません。
私にとっては、気恥ずかしいけれど心を揺さぶられるもの、といえるでしょうか。
船村さんの1曲としては、北島三郎さんが歌った「なみだ船」(詞:星野哲郎)を挙げたいと思います。合掌。