オリンピック、パラリンピックと続いたスポーツの祭典も、今日でおしまい。
寂しいような、ほっとしたような気持ちに包まれています。
新型コロナウイルスが猛威を振るう中での開催には賛否両論がありました。
私は中止すべきだと思っていて、開幕寸前になっても「え? 本当にやるの?」と、気持ちの整理がつかないままでした。
開催されてみると、もともとスポーツなら何でもといっていいぐらい好きなので、競技を楽しみ、選手を応援しました。色々と教えられることも多かった。
ただ、心底楽しんでいたのかというと、そうとはいえない。いうまでもなく、競技場や選手を包むバブルの外側でのコロナ禍の惨状を忘れるわけにはいかなかったから。
オリ・パラがウイルスの蔓延に追い打ちをかけたかどうかについては、これから検証が進むでしょう。
それより問題なのは、こうした状況下での開催について、運営する側から納得のゆく指針が示されなかったこと。そのために、「感動するけど、本当にこれでいいの?」というモヤモヤした気分を振り払うことができなかった。
コロナ禍のもとではあるけれど、オリンピック、パラリンピックを開催することにはこうした意義がある、ということを、指導者は示す必要がありました。とってつけたような目標を掲げ、しかもそれをころころと換えつづけるようなことでは、とうてい素直に大会と向き合うことができません。
そのあたりの筋道をはっきりと示し、国民を納得させ、オリ・パラを応援し、新型コロナウイルスとの戦いにも備える心構えを醸し出すのが指導者の役割なのに、それをする人がいない。そのために、国民全体の中でも、一人ひとりの心の中でも、分裂が生じてしまった。
ここが東京2020のいちばんの問題だったと思います。