積読本がひとつ片付きました。フランスの哲学者フロランス・ビュルガの『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社2021)。
市民農園で野菜を作ったり、このところ植物との付き合いが深まり、植物という存在をあれこれ考えてみたいと思っていた時に目についたのがこの本。
哲学者が考えるというところが、植物学者の書いたものとは違っておもしろいかもしれないという気がしました。トマス・ネーゲルの名著『コウモリであるとはどのうようなことか』(永井均訳、勁草書房1989)を楽しんだことも少し頭をよぎったかも。
タイトルどおりの内容なのですが、たぶん、著者にとってこのテーマを選択したきっかけのひとつには、最近、「植物を虐待していいのか?」などと、あたかも植物が苦痛を感じる生きものであるかのような論調が一部に出てきていることがあるのではないでしょうか。そして、もうひとつは環境問題の中で植物が果たす役割が大きいので、そこを改めて指摘したいと考えたのでは。
著者は、動物と比較して、植物がどのような生きものであるかを考えるところから出発します。バクテリアや菌類も比較の対象にした方がいいのでは、とも思いましたが、ま、ここらあたりは哲学的伝統にのっとっているのでしょう。
著者は次のようなヘーゲルの考察を紹介しています――
- ……植物には真の内面性がなく、真の性的関係を持たないのに加え、運動機能もない。そのため、自分で決めたのではない場所に根を下ろしたが最後、そこから逃げだすことはできない。(中略)運動機能がない植物は、今いる場所の特殊性に気づかない。もし、植物がその場所から逃げだして、外の世界との連続的な関係を断ちきれれば、真の主観性をもつ生物として存在するようになるだろう。つまり太陽光のなかで、自らの外側に探しあてた「自己」を内面化できるようになるのだ。
植物の「内面性」や「主観性」はともかく、「真の性的関係」をもたないかどうかは留保したいところ。胞子の運動や花粉と子房との出会いなどを見ると、強い性的関係を感じますし、花という器官の発達ぶりなどを見ても、動物とは別の「性的関係」への指向があるといえそうです。
こういったことはヘーゲルに聞くより、現代の植物学者に聞くべきではなかったでしょうか。最新の科学的事実から出発して、植物と人間との関係を問いなおす方がよかったという気がしてなりません。
あれこれ哲学者の植物に関する意見を参考にしたあげく、著者は「わたしたちと植物には何ひとつとして共通点がないのだ」と、いささか匙を投げているようにも見えます。
けれども――
- ……人間と植物のこうした存在論上の断絶は、植物の美しさをわたしたちが「経験」することで乗り越えられる。(中略)わたしたちは、つねに超然としているその生命に触れると、心が落ち着いたり、やさしい気持ちになれたりする。
このあたりが結論になるように思われます。
うーん、植物とは何かについては、やはり自分で考えるべきかもしれません。
夕方の散歩で見た、西の空。
柏野小学校の南側の農道から撮影しました。灰色の層雲の彼方で、高層雲(?)が夕日を浴びています。この後、少しピンクに染まりました。明日は晴れるかな。