ミニマリズムとは1960年代の米国で影響を持った芸術運動で、形態や色彩を最小限に抑えようとするものだ。だが昨今英語のブログなどで使われるミニマリズムとは、所有物を極端に抑えた生活態度を指している。
ニューヨーク・タイムズにCarl Richardsというファイナンシャルプランナーが、「あなたは恐らくものを持ちすぎじゃないの」というエントリーを書いていた。その中で紹介されているのが、アンドリュー・ハイドというブロガー兼インターフェイスデザイナー。http://andrewhy.de/the-15-things-i-own/
ハイドさんはたった15のアイテムだけを持って世界を旅行した。15のアイテムというのは、バックパック、シャツ、レインジャケット、タオル、財布、iphoneなどだ。
ハイドさんは「成長する時に、大きな家をモノで一杯にすることがゴールだったのではないか?だが、モノを成功のモノサシとする考えを拒否することで、はるかに質の高い生活を見出すことができた」と述べている。
このような考え方は、宗教者の中でははるか昔からある。禅宗の雲水は行李一つに応量器と呼ばれる食器セットと正法眼蔵等僅かな所持品のみを持って修行して歩く。だが宗教者だけではなく、立派な人生を送った人の中にもこのような考え方をしている人はいる。
好きな作家である藤沢周平に「書斎のことなど」というエッセーがあり、その中で彼は「・・・書斎らしい書斎が、私の家にはない。私の部屋にあるのは、本棚三つと机がひとつ。・・・なぜこうなのかということを、理由をはぶいて結論だけ言えば、私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する」と述べている。
とは言っても、持ち物を15品目に絞り込むことや、行李一つにまとめることは現実的ではない。前述のハイドさんも今の所持品は約60に増えているそうだ。
Richardsさんはエントリーの中で「まず毎シーズンの終わりに、衣服をチェックしてそのシーズンに一度も袖を通していないものがあれば処分しなさい。処分するといってもeBayで売却するのではなく~それには時間という別のコストがかかるから~、チャリティに寄付して税金の還付を受けるのが良いです」と述べている。
自分自身について考えると、毎日のように通勤しなくなった今は、クローゼットや下駄箱の中を大整理するチャンスだ。
だが中々作業は進まない。簡単にいうと「このフェラガモのネクタイ、結構高かったよな」とか「今すぐ履かないにしても、履ける靴を捨てるのは惜しいよな」などという邪念が作業を妨げるのだ。だが幾ら高かったものでも使わないものは価値がない。万一に備えて取っておいたものを使うことはまずないだろう。
山屋の目線でものを考えると、自分が担いで登ることができる登山用ザック一個分の荷物が、世の中を渡っていく上で必要にして十分な荷物の量なのだ。
所持品を絞り込んで、軽快に山を登る、という原点に帰って、日常生活を見直そうと私は考え始めている。