昨日(12月19日)年賀状を書き上げました。書き上げた、といってもパソコンからの宛名印刷が主な作業です。
後はコメントを書くべき人、書きたい人に書くという作業です。中にはコメントを思いつかない人がいます。
勤めていた会社の人で何年もあっていない人などです。本来「今年もまた一献傾けましょう」などとコメントの書ける人に出すのが年賀状なのかもしれませんが、あまり小難しいことは考えず、ルーティンワーク的に今年も年賀状を作成しました。
年賀状を書いていて、いくつかのことに気がつきました。
一つは今年も「喪中につき欠礼」のハガキが多かったことです。お付き合いはシニア層かその予備軍が多いので、ご両親がお亡くなりになった方が多いのです。ただ中には兄弟姉妹の逝去で欠礼するというハガキもあります。このようなハガキを見ると、死ぬということは案外近いところにあると感じたりします。
次に相対的にワイフの年賀状が増えているようです。会社生活を送ってきたものと地域社会に根付いているものの違いがでているようです。
また年賀状の中には事細かに「どこに行った」とか「何をしている」と印刷している人もいます。
私も山仲間などには「どこそこへ行った」とか「今年は北海道に行きたい」などと手書きでは書くのですが、印刷文面は紋切り型のそっけないものです。
趣味とは関係のない繋がりもありますからね。
好みの問題でしょうが、事細かに自分がやっていることを書く、というのはidentificationの顕示のような気がして、私の趣味にはあいません。
事細かなことを書いている人の現役時代を思い出すと、概ね理屈っぽく、自分の仕事についてあれこれいう人が多かったような気がします。
「三つ子の魂百まで」というところでしょうか?
ちょっと川柳のようなものを思いつきました。
「年賀状書いて実感輪の重み」
輪は人の輪=つながりであり、年輪の輪=年齢です。
この先人の輪が大きく広がる可能性は少ないと思いますが、長年慣例的に年賀状をやり取りしている人に加えて、新しいお付き合いが
始まって初めて年賀状を書く人がいると嬉しくなりますね。来年は少しでも新しい輪が広がるような活動をしたいと考えながら、今年の年賀状作成を終わりました。