昨日(11月18日)中央大学駿河台記念館で、一般社団法人 日本相続学会の研究大会が開催された。
基調講演は行動経済学者・川西諭上智大学経済学部教授の「なぜ相続が争族になるのか?」という話。この話について感想を述べてみよう。
川西教授の話のポイントは3つあったと思う。それは「各相続人の(参照)基準点が高いので、争いになる」「現在の日本では複数の規範が存在し、各相続人が自分の規範を持ち出すので争いが収集しない」「コミュニケーション不足が相手の規範の理解を難しくしている」と私は理解した。
(参照)基準点はこの場合、要求水準あるいは達成すると満足するポイントと考えてよい。複数の規範というのは「子どもはだれでも親の財産を平等に引き継ぐ権利がある」とか「親の面倒を見た子どもはより沢山財産を相続する権利がある」なという色々な考え方があるという意味だ。
規範はフレームワーク(枠組み)と言い換えても良いと思う。フレームワークとはある社会に共通したものの考え方である。我々が会社などの集団に居心地の良さを感じるのは(感じない人も最近は多いと思うが)、あるフレームワークを共有しているからだ。つまり細かいことを言わなくても分かり合える関係と言ってよい。
ところが親兄弟や親せきといっても長年別々に暮らしているとものの考え方が違ってくる。つまりフレームワークが違ってくるのだ。
大きな話をすると今の時代は世界的に見て、フレームワークが複数化しているということができる。例えばアメリカ大統領選挙では、アメリカ社会のフレームワークに大きな亀裂が入っていることが見えてきた。リーマンショック前のアメリカには「アメリカンドリーム」という神話があった。つまり誰でも真面目に働いていると家一軒は持てるという神話だ。また少し前の日本には成長神話があった。
アメリカンドリームや成長神話はその時代のフレームワークであり、その中で人々は方法論を議論することができたが、社会全体をフレームワークが崩れて人々がそれぞれのフレームワークを持つようになると話は中々まとまらなくなる。
相続の問題について考えると直系的家族制度と核家族、さらには単身世帯というフレームワークが併存し、生命観や葬儀・墓の問題についても様々な価値観つまりフレームワークを個々の相続人が持っているので、話は中々まとまらなくなっているというのが現状だろう。
ひっよとすると日本という国は相続の問題について最もフレームワークが複雑化している国ではないか?と私は感じている。
例えばアメリカの場合「親の稼いだ財産は親の世代のものであり、親は自由に処分する権利がある」というフレームワークが社会で共有されていると思う。
ヒンズー教文化の社会では「総ての生物は輪廻転生するから、死は肉体の消滅に過ぎず魂は永遠である。だから必要以上にこの世の命に拘ることはない」という考え方が社会を通底している。つまり大きなフレームワークがあるのだ。
だが社会に共通するフレームワークがなく、また相手のフレームワークを理解するコミュニケーションにも欠ける日本においては家族間でも争いが起きる可能性が高い(いや家族間だからか?)
相続争いという問題を考えていくと今の日本の社会を支えるフレームワークが脆弱であると改めて感じだ次第である。