コロナの頃から断続的にオンラインで日本語レッスンを行っているネパール人の女子高生がいる。
日本語レッスンといっても、文法や日常会話を体系的に教えている訳ではない。それよりも日本の文化、伝統、東アジア史の話などをしている。何故ならこの女子高生は、将来アメリカの大学で国際関係論を勉強して、外交官になりたいという夢を持っているからだ。
色々な国の文化や伝統を学び、その文化や伝統を自国や他の国と較べて、幅広いものの見方を養う上で多少なりとも貢献できれば良いと私は考えている。
季節柄日本のお盆の話をした。
お盆というのは8月13日から15日にかけて(地方によっては時期は7月のところもある)、先祖の魂が自分の暮らしていた家に戻ってくるので、その魂を迎える宗教的行事のことだ。
先祖の魂の乗り物として、胡瓜や茄で馬や牛を作って仏壇にお供えをする風習もある。
もっとも我が家の場合、40年位前に故郷の京都を離れ、東京の郊外に住んでいるので、先祖は勿論のこと両親もここに帰ってくることはないだろうから、お盆の行事はおこなっていない。
お盆は、仏教が伝来する前より日本人が持っていた祖霊信仰と仏教が融合したものだ。インド生まれの仏教の本筋からいうと人は死ぬと生前の行いの良し悪しにより、何かに生まれ変わる。かならず何かに生まれ変わるのである。
仮にある人が馬に生まれ変わったとしよう。その人の魂がお盆の間、自分が暮らしていた家に戻っているとすると、馬はどうなるのだろうか?魂を失った馬は馬小屋で眠り続けているのだろうか?
つまりお盆という考え方と仏教の輪廻転生とは論理的に相いれないのである。
日本では死者の霊は、死後数十年は家の近くの森などにいて、お盆の時期には簡単に自分の家に戻ることができると考えられてきたのだ。
こんな話をして「ネパールにも同じような習慣はある?」と聞いてみた。
すると答は「お盆のように総ての死者が一度に家に戻るという考え方はないけれど、それぞれの死者の祥月命日には死者の魂を祭るという風習はヒンドゥー教にもある」という話だった。
輪廻転生とお盆のたびに魂が暮らしていた家に戻ってくるという考え方は、論理的には矛盾しているところがある。しかしそれはそれほど重要なことではないかもしれない。
重要なことは、死者の霊を弔うことにより、自分たちの生きている意味を見つめたり、家族や親せきが一同に会することなのだ。
私はそれからキリスト教(特に米国)では、感謝祭が日本のお盆のようなもので、各地に散らばっている家族が一同に集まることが多いという話をした。
宗教の教義や習慣は、それぞれの宗教や社会によって異なる。だが一番大切なことは、教義ではなく、その習慣を通じて私たちが、はるか昔からの命のつながりの中に生きていて、さらにそのバトンを将来へ渡す役割を担っていることを知ることだと思う。
そんな話をしたが、それがネパール人女子高生に届いたかどうかは分からない。