下重暁子さんの「家族という病」の続編「家族という病2」が出版された。
一般に続編は正編(オリジナル)ほど面白くないというがこの本も轍を踏んでいるようだ。
正編は紙の本を買った。「『家族はすばらしい』は欺瞞である」という帯封が目を引いたので買ったのだが、続編はキンドル本で買ったので
どんな帯封がついているかは知らない。
私が続編は正編ほどインパクトがないと感じたのは、正編の「家族は欺瞞である」という断定的な論調が少しトーンダウンして「善にも悪にもなりうろ正体不明のものが家族であり、どうなるかは家族を構成する側にかかっている」と述べていることだ。
正編の「家族はすばらしいは欺瞞である」はレトリック(誇張)だったのかもしれない。
とはいえ私は下重さんの考え方がぶれているとは思わない。下重さんのスタンスは「家族という受け皿が最初に存在するのではなく、最初に個人ありきと考えたいと私は思っている」という点で変わりはない。
ただ「家族は病の元」という著者の意見に反対する人の多くが「初めに家族ありきと家族を信じ、頼っている」ので、そういう家族もあるだろうと譲歩したように思われる。
「家族はすばらしいのか」「家族は重荷なのか」「善にも悪にもなりうる正体不明のものなのか」は、私はその個人の体質や個人的経験にかかっていると考えている。
ただ大きな流れは「家族という受け皿」から「個人」に変わっていくと確信している。大雑把にいうと日本的な家族主義から欧米的な個人主義への流れだ。
個人主義が徹底している米国を見ると基本的には財産はそれを形成したその人の自由意思で処分することが基本的な考え方になっている(もっとも配偶者は財産の半分を請求する権利を持つとする州が多い)。さらにその考え方の根底にはキリスト教的な財産感や死生観があるようだ。
成人した子は親元を離れ、それぞれが一個の個人として独立した人生を歩いて行き、親は子による扶養や介護をあてにしない(もっともリーマンショック以降親のすねをかじる若者が増えているようだが)のが米国の基本スタイル。
経済構造や雇用構造が欧米化していく中で、日本的家族主義を必要以上に残そうとすると、その歪みは家族の一部に過重にかかると私は懸念している。
ただ家族とは何か?という意識は個人的経験による部分が多いので、世代間に大きな意識のズレがあることも確かだ。だからもう少し時間が経たないと「家族とはこうだ」というコンセンサスが生まれないかもしれない。
「家族という病2」は正編ほどのインパクトはないが、正編を読んである程度共感した人には読み易い本だし、自分の考え方を深める上で参考になるところはあると思う。
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