福岡発 コリアフリークなBlog

韓国や韓国語に関するオタクの雑学メモ。韓国映画はネタバレあり。 Since 2005/9.14

法院

2006年05月15日 |  〇文化・歴史

■ 일본식 국제법용어 바꿔야
日本式の国際法用語を変えなければ
(東亜日報 5月15日)

・・・・・・・・・

韓国を代表する全国紙である「東亜日報」に、韓国のある
「愛国的」な国際法学者が寄稿記事を掲載していた。

久しぶりに「ヲタク」の批判精神がいたく刺激される内容の
記事を読んだ。

まず、記事の中から彼の問題意識の核心部分を引用して見る。

・・・・・・・・・

법조인의 산실인 사법연수원에서도 최근까지 외국어로 오직
일본어만 가르쳤다. 그 이유가 일본 판결문을 참조하거나
베끼기 위해서였다는 사실을 어떻게 생각해야 하나?
法曹人を養成する司法研修院でも、つい最近まで外国語として
唯一、日本語だけを教えていた。
その理由が、日本の判例を
参照したりコピー(翻訳利用)するためであったという事実を
どう考えればいいのか?

일본식 표현이 무성한 말로 독도가 곧 일본에 넘어가기라도 할
것처럼 목소리를 높이기에 앞서 그러한 ‘언어 속의 일본해
물결’부터 걷어 내야 하지 않을까?
日本式表現が多用されている国際法用語を使いながら、
独島(竹島)がすぐにでも日本の手に渡ってしまいでもするかの
ように過剰な反応をする前に、こうした「韓国語の中の日本海の
波(多くの日本式表現)」からまず取り除く必要がある
のでは
ないだろうか?

・・・・・・・・・

もちろん、日本式法律用語の安易な模倣などすべきでないと
「ヲタク」も思う。

また、真の意味で植民地時代の負の遺産を直視し克服しよう
とする真摯な努力に対しては、深い敬意を抱いているのが
「ヲタク」だ。

しかし、彼は上記のように述べながら具体的には、次のような
「言いかえ」を提唱している。

・・・・・・・・・

※(言いかえが必要な日本式表現)
→ (望ましい韓国語的な表現)

・「영유권(領有権)」
→ 「영토주권(領土主権)」あるいは「영토관할권(領土管轄権)」

・「국제사법재판소(国際司法裁判所)」
→ 「국제사법법원(国際司法法院)」

・「국제사법재판소재판관(国際司法裁判所裁判官)」
→ 「국제사법법원판사(国際司法法院判事)」

・・・・・・・・・

こうした提言は、このブログで「ヲタク」が折に触れ批判している
「日帝残滓清算論」と軌を一にする欺瞞的な論理だと
言わざるを得ない。

--- つまり、恣意的にターゲットに選んだ一部の「日本式表現」の
問題性を日本式表現で指摘し、あまつさえ日本式表現への
言いかえを提言するという自己満足的な論理の典型例なのでは
ないかと思われる。

まず、悲しいかな、ここでは韓国的な(?)表現として使用されて
いる「国際法」や「司法」、「主権」などといった西欧的な概念
自体が、近代日本式の翻訳用語である可能性が非常に高い。
「判事」については裁判官の官職名として明治時代から日本で
使用され続けている用語だ。

「領有権」や「裁判所」、「裁判官」という漢字表現を日本式だと
いう理由で言い換えの対象にするのなら、あわせて「国際法」や
「司法」、「主権」、「判事」などという表現もセットでその対象に
すべきなのではないだろうか。

少なくとも、「国際法」や「司法」、「主権」、「判事」などの用語が
韓国固有の漢字語表現であると見なせるような歴史的な
根拠があるとは思えない。

--- 加えて、歴史的に見てさらに深刻な問題をはらんでいる
と思われる表現が「法院」という用語だ。

つまり、この「法院」という用語は、韓国人が最も忌み嫌って
いるはず
の「朝鮮総督府」に特有の用語であったという歴史的
事実をどう考えるのか、という問題だ。

少し詳しく言えば、明治期以降、本土においては「裁判所」という
用語が一般化した戦前の大日本帝国において、新しく日本の
植民地となった台湾や朝鮮の総督府行政においては、本土の
「裁判所」とは制度的に異なった「法院」という名称の司法機関を
設置し運用したのだ。

もちろん、朝鮮総督府が「法院」という司法機関を設置する
以前から、「法院」という用語が朝鮮半島で使用されていた
可能性が全くないとは断言できない(調べる意欲もない)。

しかし、少なくとも現代の日本語と同じ漢字語表現の代案と
して、朝鮮総督府の司法機関名と同一の用語を使用しよう
などという提言は、あまりにお粗末に過ぎるのではないだろうか。

もっとも、韓国国内では「裁判所」に相当する用語について、
現在でも「法院」という総督府の司法機関名が、他のあまたの
一般的日本式漢字語とともにハングル読みされたまま使用され
続けている。(「裁判官」については一般的に「判事」と呼ばれ
ている)

このように、正確には日本式漢字用語というよりは、総督府に
特有な機関の名称でさえ「清算」されないままハングルの皮を
かぶり生き残っている(?)のが韓国社会の現実なのだ。

「否定」と「憎悪」の対象でしかない植民地時代の近代化の
歴史がほとんど検証されることのない韓国では、かなりの
知識人でもこうした事実を知らないか、あるいは、薄々知って
いても直視しようとしない人がかなりの割合で存在している。

韓国人も日本人とは違った意味で、過去の歴史を直視しないと、
妙なところで「総督府の亡霊」に絡め取られてしまう。

植民地時代の歴史を直視し検証することは、決してその時代を
丸ごと肯定することではないと「ヲタク」は考えている。それは、
現代をより正確に理解し、よりよい未来を築くためにこそ必要な
作業なのだ。

--- 全く余計なお世話だが、「領有権」や「国際司法裁判所」と
いった一般的な日本式漢字語表現を改める必要性を説くのなら、
現代日本語では既に死語となっている「法院」など旧植民地に
特有の総督府式用語を改めることのほうが先決なのでは
ないだろうか?

「ヲタク」には、そちらの方が歴史的によほど意味があると思える。

性格は少し異なっているが、韓国で長らく使用され続けてきた
국민학교(国民学校)(※)という名称を「초등학교(初等学校)」に
変更(1996年)したように・・・

(※)日本本土では1941年から47年まで使用された名称。
いわゆる軍国主義教育のシンボル的名称。現在の小学校に相当。


(終わり)



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大統領

2006年05月15日 |  〇語彙と表現

韓国で、ちょっとしたスターとして活躍している有名(?)
弁護士が、「日帝残滓」(日本による植民地支配のなごり)である
「大統領」という親日用語の清算に乗り出したという。

今の時点では、用語が用語であるだけに、彼の提唱が
国民的な関心を集め、合意を形成していくことは極めて
難しいとは思われるが、少なくとも「大統領」という用語が
日本式表現である点については、とりあえず「ヲタク」も
事実だと思う。

ただ、細かく言えば、彼の職業である「弁護士」をはじめ、
彼が口にしている「国家元首」「代議制」「民主主義」など
「大統領」以外のその他の政治用語についても、約95%は
日本式表現だと考えられるが、例によってそうした事実は
検証されることなく無視されている。

とりあえず適当(?)な「親日的」用語をターゲットに選び、
叩くこと自体が、韓国社会の愛国心を刺激し社会的な共感を
得るための「手段」となっていると考えられる。

歴史的な事実を客観的に検証する作業など、そんな無粋なことに
関心を向ける暇人など、ほとんどいないのだ。

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■ 국가원수 호칭 '대통령'도 친일잔재?
国家元首の呼称「大統領」も植民地時代のなごり?
(プライム経済新聞 5月13日)

대통령이라는 명칭이 문제 있다는 주장이 현역
변호사에 의해 제기됐다.
「大統領」という名称に問題があるとの主張が
現役の弁護士により提起された。

대외법률 최규호 변호사는 13일 현재 우리가 쓰고 있는
국가원수의 호칭인 대통령에 대한 문제를 제기했다.
弁護士のチェ・ギュホ氏(「対外法律事務所」)は13日、現在、
韓国で使われている国家元首の呼称である「大統領」に
ついて問題を提起した。

현재 국가원수를 지칭하는 대통령이란 명칭은 잘
알려지지 않은 친일 잔재에 속한다는 것이다.

現在、国家元首を指して使われている「大統領」と
いう名称は、知られざる「植民地時代の残滓」に
含まれるという指摘
だ。

일본에서는 통령이라는 명칭이 사무라이를 통솔하는
우두머리라는 군사적 용어로 사용됐으며, 메이지
유신을 전후한 시기 프레지던트를 번역하면서 자신들에게
너무도 익숙한 통령이라는 용어에 ‘大’자를 붙여서
대통령이라는 용어를 만들었다.
日本では「統領」(※)という名称が侍を率いる「かしら」という
意味で軍事的用語として使用され、明治維新の前後に
「プレジデント」を日本語に翻訳する際、日本人に馴染み深い
「統領」という用語に「大」の字を付けて「大統領」という用語を
作り出した。

(※)「棟梁」のことらしい。

이후 개항기를 맞이한 한국에서도 자연스럽게 일본식
조어가 쓰이게 되었고 임시정부 시기에도 지속적으로
쓰이기 시작하면서 현재까지 이르게 됐다.
その後、開港期を迎えた朝鮮でも自然と日本式の造語である
「大統領」が使われるようになり、臨時政府の時期にも
引き続いて使用され、現在に至っている。

중국에서도 청나라 말기 ‘통령’이라는 무관직에 대해서
쓰이긴 했지만 ‘대통령’이란 표현은 찾아 볼 수없다.
中国でも、清朝末期に「統領」という武官職が存在したが、
「大統領」という表現は使用例がない。

현재 중국은 외국 정상에 대해서는 가감없이 ‘총통’이라는
표현을 쓰고 있으며, 언론에서도 ‘노무현 총통’, ‘부시
총통’ 이라 쓰고 있다.
現在、中国では外国の指導者については「総統」という表現を
使っており、マスコミでも「ノ・ムヒョン総統」、「ブッシュ総統」と
呼んでいる。(※)

(※)正確には「大統領」を意味する中国語が「総統」で、
中国でも「首相」については同じく「首相」という漢字語が
使われている。

중국의 자문화 중심의 특성상 이해할 수 있는 부분이지만
우리나라의 경우에는 ‘대통령’이 갖고 있는 의미는
남다르다고 할 수 있다.
中国の自国文化中心主義的な傾向から理解できる部分ではあるが、
韓国の場合、「大統領」が持っている意味は特別だと言える。

이와 관련 최 변호사는 “대통령이라는 명칭은 권위적이고
국민위에 군림한다는 인상이 강하다”고 주장했다.
これに関して、チェ弁護士は「大統領という名称は権威的で国民の
上に君臨するという印象が強い」と主張する。

대통령은 왕이 없는 우리나라에서 마치 제왕적 절대권위의
느낌으로 받아들여지고 있으며, 국민이 주인인 대의제
민주주의에서 다만 선출직에 지나지 않는 자리이므로
바뀌어야 한다는 것이 주된 내용이다.
大統領は王のいない韓国で、まるで帝王的な絶対的権威者と
して受けとめられており、国民が主人である代議制民主主義では
単に国民から選出されたに過ぎない職なので、かえた方が
いいというのが主な内容だ。

그는 “대안으로는 國務長, 國長, 元首, 主席, 혹은 나라장
정도가 될 수 있다”며 “다양한 수렴과정을 거칠 필요가
있다”고 주장했다.
彼は「代案としては国務長、国長、元首主席、あるいは
『くに長』くらいがいいのではないか。今後、多用な意見を
吸い上げながら考えていく必要がある」と主張した。

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余計なお世話だが、「元首」は日本式、「主席」(日本語の
『議長』に相当)は中国式である可能性が高いので、除外した
方がよさそうだ。

(終わり)

 

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先生の日

2006年05月15日 |   〇科学・教育

韓国には「스승의 날(先生の日)」というものがある。
毎年、5月15日がその日なのだそうだ。

ところで、韓国の教育界の「宿痾」とも言える「촌지(寸志、保護者
から教員への付け届け)」根絶の取り組みと関連して、今年から
ソウルの小・中・高校では、「先生の日」を休みにすることを
決定したという。

中央日報の読者投稿欄から、こうした事情を理解する上で
参考になる文を、一つ翻訳して掲載しておく。

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■ [중앙일보를 읽고]
스승의 날에 학교 쉰다고 촌지 사라질까 
[中央日報を読んで]
「先生の日」を休みにすれば「付け届け」問題がなくなるのか? 
(中央日報 5月9日)

4월 26일자 35면에 실린 '떳떳한 선물, 떳떳한 스승'이란
칼럼을 읽으며 씁쓸한 기분을 지울 수 없었다. 이 칼럼에
언급된 대로 서울지역 초.중.고교 교장협의회가 올해부터
스승의 날(15일)을 자율 휴업일로 결정했다고 한다.
4月26日付35面に掲載されたコラム「やましくない贈り物、
堂々とした先生」を読みながら、ほろ苦い気持ちを消すことが
できなかった。このコラムで言及されていた通り、ソウル地域の
小・中・高校校長協議会が、今年から「先生の日(5月15日)」を
「自律休業日」として休みにする
ことを決定したという。

스승의 날이면 늘 촌지 수수 등 이런저런 문제가 발생해
교권이 떨어지는 현상이 반복되는 것이 그 이유라고 한다.
하지만 이는 너무나 근시안적인 방책이다. 스승의 날에
학교를 가지 않는다고 해서 촌지 수수 관행이 사라지는
것은 아니다. 최근의 교권 추락 문제가 이러한 미봉책으로
해결되는 것도 아니다.
毎年「先生の日」になると、きまって「付け届け」のやり取りなど
様々な問題が起き、教育への信頼が地に落ちるような現象が
繰り返されているというのがその理由
だという。しかし、これは
あまりに短絡的な方策だと思う。「先生の日」に学校を休みに
すれば、「付け届け」をやり取りする慣習が消えてなくなる
わけではない。最近の学校教育に対する不信が、こうした
その場しのぎの方策で解決されるわけでもない。

구더기 무서워 장 못 담근다고 학생들이 고생하는 스승에게
감사의 뜻을 전할 수 있는 소중한 기회를 빼앗는 것에
불과하다. 스승의 날에 학생들은 칠판에 빼곡히 감사의 글을
쓰기도 하고, 풍선을 하나하나 불어서 교실 벽에 붙이기도
한다.
これでは「角を矯めて牛を殺す」ということわざの通り、生徒たちが
苦労して先生に感謝の気持ちを伝えることのできる貴重な機会を
奪ってしまう結果に終わるだけだ。「先生の日」には、生徒たちが
黒板いっぱいに感謝の気持ちを寄せ書きしたり、風船を
ひとつひとつ膨らませて教室の壁に飾ったりもする。

또 선생님이 교실에 들어오면 폭죽을 터뜨리며 스승의
날 노래를 부르는 게 아름다운 풍경으로 자리잡고 있다.
이처럼 학생과 교사가 모두 감사하고 기뻐하는 스승의
날을 없애는 것은 교사들의 사기나 학생들의 교육
면에서 도움 될 것이 없다.
また、先生が教室に入ってくれば爆竹を鳴らし「先生の日の歌」を
歌うのが、美しい風景として定着している。このように生徒と
教師が共に感謝し共に祝う「先生の日」をなくすことは、教師の
士気や生徒たちへの教育面を考えても好ましくない。

몇몇 몰지각한 교사와 학부모 때문에 아이들의 즐거운
추억을 빼앗는 것은 바람직하지 않다.
一部の無分別な教師と保護者のせいで、子どもたちの楽しい
思い出を奪うのは望ましくない。

ID:resist343.인터넷 투고
ID:resist343.インターネット投稿

(終わり)


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