「五十歳からの生き方」 中野孝次著 海竜社 1,500円
最近本を読むことが多くなっている。夜の付き合いとかゴルフが減っているせいだ。ゴルフはテニス肘をいたわるためご無沙汰している。勢い読書が増えることになる。
読む本は多岐にわたり、現在の人が書いた人生論的なものも手にする。ただしこの手の本は余り買わないで図書館で借りることにしている。著者には申し訳ないが古典に比べると繰り返し読むことが少ないので買うと無駄になるのではないかと思うからだ。
「五十歳からの生き方」も近くの図書館で借りて読んだ。
著者の意見に全面賛成ではないが、印象に残るところを2,3引用しよう。
そのころ(50歳のころ)から人は生きる軸足をそろそろと、社会生活から私へ、組織のため働きから自分のための働きへ、忙から閑へ、要するに自分一個の生に生きるほうへとうつしてゆくべきだだ、と思うからだ。(あとがきより)
自然はもう驚くほど神秘的だよ。名もない路傍の植物が本当に精妙な花を咲かせる。・・・
こういう摩訶不思議な自然現象を思うと、われわれがいま、ここに生きているのは、すごいチャンスに恵まれた結果だということもわかる (加島祥造氏の言葉 心を洗う古典の力より)
人の幸福は、外部の時間に自分を合わせていては得られない。自分だけの時間。「吾有時」(ごいうじ。道元の言葉)を人は生きなければいけない、と道元は言っているのだった。(人を幸福にする方法)
中野氏は「社会生活」対「私の生活」で区切っているが、私は人生を4分割して考えている。「職業・経済人としての生き方」「家庭人としての生き方」「市民としての行き方」「一個人としての生き方」であり、これをバランス良く保つことが「良い生き方」=先進国で良き市民と考えられる生き方ではないかと思っている。
その比重が年齢ともに残り3つから「一個人としての生き方」に移っていくことは間違いないが、完全に「一個人としての生き方」に徹することができるものなのか?そしてそれが正しいことなのか?という点には疑問が残る。
(もっとも「死」の直前に残るのは「一個人としての自己」のみなので「私の生活」こそが大事なのだと言えばそれまでなのだが・・・)
現実には中年になっても親がいて子供がいる。妻もいる。年老いた親の健康も心配である。完全に出家でもしない限り自分だけの時間を生きることは不可能だ。余程恒資(安定資産)でもない限り、50代は老後資金の蓄積期だから仕事も放擲する訳には行かない・・・・
またボランティア活動などを通じて「市民」としての務めも果たすべきではないだろうか?
私は私なりに少しずつ生き方の4本柱の軸足を変えていく・・・・それが私なりの中庸(お釈迦様がもっとも重視したこと)の生き方である。
中野氏がこの本の中で引用した兼好法師だとか鴨長明といった人生の達人になることはやはり不可能なことなのかもしれない・・・と思った。「人生の達人」はやはり資質(仏教用語で言えば「法器」)の問題なのであろうか?
ということで全面的にお奨めする訳ではないが、一読して自分の生き方を棚卸する時の目安にするには良い本であろうと思った。