今日(12月2日)の日経新聞に「日本の金融規制緩和は世界の動きに逆行しかねない独自のルール改定に動いている」という記事があった。日本が突出して銀行に甘いルール改正に向かっているのは「銀行の株式保有を中核自己資本の範囲内に制限していた規制を緩和する方向」と「不良債権の認定基準を大幅に緩和した点」だ。貸出条件を緩和した債権でも5年間で再生可能な再建計画があれば不良債権と認定しないことにしたのだ。
この背景には「日本の金融機関や国民は金融機関への公的資金の投入を嫌う」という日本の特徴があると私は見ている。公的資金の投入についてアレルギーが少ないのは欧州で、最近の動きを見ていると米国もかなり積極的になってきた。彼等の政策は「金融機関の規律はできるだけ維持して(一部時価会計のルール変更はあるが)、不足する資本は国が注入する」というものだ。
大きな不況や市場混乱により金融機関全般のバランスシートが痛んだ時、政府が放置すると、金融機関はバランスシートを縮小することで、自己資本比率を維持しようとする。そうすると益々景気が悪化する。これを「景気循環増幅作用」というが、欧州の政策当局をこの危険性を避けようとしている。
一方日本では公的資金の投入にアレルギーが強いため、金融機関の会計ルールを緩和して、痛んだ資産にお化粧することで自己資本比率の悪化を防ごうとしているように見える。
私は「決済機能や信用創造機能を担う社会インフラとしての」金融機関は株式の保有を極力抑制するべきだと考えているが、その理由も株式を保有することで、景気後退期には過度に信用収縮を起こし、景気が拡大し株価が上昇すると過度に資産積み増しを図るという銀行のビヘイビアを増幅するからである。
金融機関の資産査定等のルールを緩和すると、目先は凌げてもやがて投資家が資産内容の健全性に疑問を感じるようになり、長期的にはマイナスとなることが明らかだ。「公的資金投入アレルギー」という潔癖性も、財政学的にはマイナス要素があることを識者やマスコミをもっとアピールするべきではないかと私は考えている。「廉潔」は個人の美徳だが、政治・経済面で美徳とは限らない。孫子は「廉潔は辱(はずか)しむるべし」と言った。これは今述べた話と少し主旨が違うが、敵将が「廉潔」にこだわりすぎるなら、辱めて相手の理性を失わせて勝利を導けという話だ。リーダーたるものは「廉潔」にこだわりすぎてはいけないという点では教訓になると思って敢えて引用した。