昨日「定年後に企業できる人、できない人」記事に雑感を書いたが、もう一言追加しよう。
それは「執着心の強さ」である。「執着心の強い人は起業に向き、執着心が薄く淡白な人は起業に向かない」というのが私の意見だ。
四半世紀ほど前に司馬遼太郎の「戦雲の夢」という小説を読んだことがあるが、その一節が私には長いこと気になっていた。
「戦雲の夢」は大坂冬夏の陣に参戦し敗戦後刑死した長曾我部盛親を主人公にした小説である。
冬の陣の後、東西講和が整い、束の間の穏やかな日が戻ってきたある日、梅のつぼみを見ながら盛親は次のように感じる。
~梅を見ても特段の感激を覚えない盛親は同輩と自分を見くらべる。
「真田幸村は、兵略に才があるというよりも、心の底から、兵略の好きな男であるようだった。・・・後藤又兵衛は、こんどの合戦で、武将としての自分の才能を見極めたいと思っている。・・・・明石全登(たけのり)は、これが天下の合戦仕舞だと言い、生得戦さ好きのこの男は、ただ戦さをすることだけで満足している様子だった」
「おそらくかれらどの男も、梅をみれば、心のふるえるようなするどい感受性をもっているに相違ない。・・・そういう心のみずみずしいはずみが、執着を生み、執着が男の野望をそだてる。おれにはそれがない」
50代の中頃、もう一度「戦雲の夢」を読み、私は自分は幸村・又兵衛・全登タイプではなく、盛親タイプの人間だということを改めて認識した。
つまり梅をみて心が震えるほどの鋭い感性を持っていないのである。
そして兵略をビジネスや企業経営に置き換えると、幸村や全登のように「ただビジネスや企業経営することだけで満足していない」自分を発見したのである。
「そうなのだ。自分には執着心が薄い。人の競い合い、丁々発止の駆け引きに至上の喜びを見いだすほどの執着心はない」と悟ったということだ。
司馬遼太郎は盛親に「おれは平凡な男だ。・・・庶人の家にさえうまれておれば、なんの苦もなく生涯を終える男だったのだろう」と言わせる。
感受性とそこから派生する執着や野望もまた天性のものだ、とするなれば人は天性に従った生き方をした方が幸せになることができるのだろう。