昨日(2月4日)私の住んでいる町で「雑学大学」というシニア向けの講演会があり、「忠臣蔵の真相~義士の最後」というお話を聞いてきました。
講師の方は義士の最後の話をするためわざわざ義士が切腹した2月4日を選んだ、ということでした。
一番興味深かったのはお話の最後で講師が明治天皇が義士を称賛する勅宣(みことのり)を明治元年(1868年)に出したということでした。
勅宣の一部を紹介します。
大石良雄(よしたか)
汝良雄等固執主従之義復仇死干法百世之下使人感奮興・・・
「大石よ お前たちは主従の義を固く守り法を犯して仇討ちして死んだ。そして後世の人に感動を与えた・・・」という意味でしょう。
以下のことは講師の方の話でなく後で私が調べたことです。
勅宣が出されたのは明治元年11月5日です。その2か月前には会津藩が政府軍に降伏し、約1か月後には「会津容保等寛典の詔」が出て容保の罪を一等減じています。
何故このタイミングで明治天皇(実際はブレーンの誰か)が義士を称賛し金幣を与える勅宣を出したか?ということを考えると中々興味深いものがあります。
第一には「政府軍に叛いた会津藩達も徳川幕府との義において戦った」という認識を示し、処罰を軽くする下地を作ったと考えることもできると思います。
次に明治政権においても主従・君臣の忠義を強調したともいえるでしょう。
もう少し深読みしてと尊王の書と言われる「中朝事実」を書いて朱子学を批判し江戸から追放された山鹿素行をかくまったのが赤穂藩で大石達も素行の弟子だったことを指摘する人もいるようです。
ところで赤穂義士の行動を「敵討ち」と呼ぶことには私は違和感を感じます。敵討ちとは主君や親を殺された相手に家臣や子どもが戦いを挑むことですが浅野内匠頭は吉良上野介に殺された訳ではありません。自分で刃傷事件を起こし、当時の法律に従って処刑されただけです。
ただ当時の法律では「喧嘩両成敗」の規定があったにも関わらず相手方の吉良側は御咎めなしだった。大石達はここを問題視したのです。つまり大石達は幕府の裁きに対する不満を吉良上野介の首を取るという形でしか解消できなかったのでしょう。
仮に赤穂家家臣達が望んでいた内匠頭の弟・大学による家名存続が認められていたら敵討ちはなかったはずです。
討ち入りの後、吉良家は当主(上野介の孫)の討ち入りに対する対応不備を理由に断絶。一方大学は将軍綱吉の死去後の恩赦により旗本に取り立てられたということです。結果としては吉良家は喧嘩両成敗以上に割を食ったということでしょう。
歴史は当事者の意図したことから離れて動いていくという意味で興味深いと思いました。