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すぐやるべき終活(4)~宗教書・哲学書を読む~

2021年06月01日 | ライフプランニングファイル
 自分の葬儀や墓をどうするか?という問題については、よく考えて対処した方が良いと述べました。そしてその理由は葬儀や墓は本人のためよりも残された人のためにあるからと書きました。
 これは分かり易い一つの理由ですが、私はもっと根源的な理由があるのではないか?と考えています。それは「死んでからのことより如何に生きるか?」ということの方がはるかに大事だということです。
 世界の大宗教や偉大な哲学書を読むとそのことがわかるのですが、江戸時代以降の檀家制度で育まれた平均的な日本人の宗教観では、ややもすると如何に生きるか?ということよりも死んでからことや死んだ人への回向が重視される傾向があります。
 昨今ブームの終活指南についても、指南書の書き手が葬儀会社であったり、寺院関係者である場合は、自分たちのビジネスのため葬儀や墓を持ち上げる傾向が強いと思います。
 伝統やしきたりを重視したいから難しいことは考えず、家の宗派の葬礼に従うという方はそれで結構だと思いますが、何かおかしいな?と感じられる人もいるのではないか?と思います。
 何かおかしいな?と感じられる方に私は宗教書や哲学書を読みながらこの問題を考えるきっかけをつかまれてはどうか?と提案したいと思います。
 宗教書や哲学書を読むという意味は書かれている内容を鵜呑みにするということではありません。それを参考にしながら自分で考えていくステップボードにするという意味です。
 その一つの例として私は「歎異抄」をあげたいと思います。歎異抄は親鸞の高弟・唯円が親鸞亡き後、親鸞の教えと異なる説を唱える人の出現を嘆き、その誤りを論難するために書かれた書物です。
 論難の書であるため「善人なおもって往生を遂ぐ、いわや悪人をや」などという逆説的なレトリックがしばしば使われていて、読み方によっては親鸞や唯円の意図するところと違う結論を引き出す可能性もあります。
 ですから歎異抄は明治の終わりごろまで封印されていたと言われています。
 しかし現在では親鸞思想の格好の入門書として広く読まれていますし、葬儀や墓の問題を考える上で重要なヒントを与えてくれます。
「親鸞は亡き父母の追善供養のため一遍の念仏たりと唱えたことはない」(歎異抄第5章)
「私が死んだら賀茂川に捨てて魚に与えよ」(日頃親鸞が語っていた言葉。曽孫の覚如の記録)
 この二つの文章は親鸞が葬儀や追善供養あるいは墓というものを全く重視していないことを示しています。
 親鸞がもっとも重視したのは「仏法の信心」だったのです。
 ただし「仏法の信心」というのは非常に難しいと私は考えています。
 親鸞の教えの一番コアな部分に踏み込まずして、供養はいらない、墓はいらないというパーツの話をするのはやや強弁な感じもしますが一つの参考になると思います。
 たまたま私は「歎異抄」を手掛かりに葬儀や墓の問題を考えてみましたが、広く読み継がれている宗教書や哲学書の中にはエンディングの問題を考えるヒントがちりばめられていると思います。それらの本を読むと葬儀をどうする?墓をどうする?と考える前に考えるべきことが見つかるかもしれません。
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