最近藤原 正彦氏の「国家の品格」(新潮新書)を読んだ。正確にいうとワイフが買ってきた本を一足先に読んだ。ワイフは藤原 正彦氏のファンらしく我が家には氏の本が何冊もある。藤原 正彦氏は作家新田次郎氏と藤原ていさんの次男にして数学者。御茶ノ水女子大の教授である。私は若い時新田次郎氏の山岳小説を何冊か読み、山心を高ぶらせたことがある。特に超人的な単独行で有名な加藤文太郎をモデルした「孤高の人」は印象に残っている。ということもあり私も藤原 正彦氏の本は何冊も読んでいる。また私の次女がお茶の水女子大で数学を専攻したこともあり(もっとも藤原教授の授業を受けたかどうかは聞いていないが)藤原氏にはある種の親近感を抱いている。
ただしこの「国家の品格」についてはかなり悩ましい読後感を持っていると言わざるを得ない。問題点は次のとおりだ。第一はこの本の主旨は「日本は国家の品格を保ちそれで世界を救え。世界を救えるのは日本しかいない」というものだが、自己の主張を推し進めるあまり牽強付会の説明が多いこと。
第二は本筋とは余り関係のない部分とはいえ明らかな誤りが目立ち、本としての品格を落としている点。
では全く無意味な本なのか?というと著者の意見には賛成できるところもあるので無意味と切り捨てる訳にもいかない。よってこの本はある程度物事を知り、批判的精神がある人間が読めば意味があるが、無批判に読むと危険なことになる本であると警告を発しておこう。
以下具体的に問題点を指摘しておこう。
29頁から31頁にかけて「デリバティブの恐怖」についての説明がある。その中で「Aさんは3百万円の証拠金で3ヵ月後に現在と同じ千円で十万株(総計1億円)を売る権利を買うことができます。ところがこちらは、3百万円の証拠金をもらう代わりに売る権利を放棄できないことになっています」という記述があるが、これは明らかな誤り。オプションでは権利を買ったものは証拠金をギブアップしていつでも権利を放棄することができる。もしオプション引受のリスクに言及するのであれば、「売る権利を売る」と記述しなければならない。
もう一つ事実認識に関する大きな誤りを指摘しておこう。それは70頁で(カルヴァン主義の予定説に対し)「仏教の方では基本的に、善をなした人とか、念仏を一生懸命唱えた人だけが救済されるという理解しやすい因果律だからです」という記述があるがこれが間違いだ。日本で最大級の宗派は浄土真宗であるが、浄土真宗の教えは救済のために念仏を唱えるのではない。阿弥陀如来は総ての衆生を救うことを本願としているので念仏を唱えようが唱えまいが救済されるのである。従って浄土真宗の門徒が唱える念仏は阿弥陀如来の本願に対する感謝の念仏である。仏教が因果律であるというのは極めて皮相な見方である。
もう少し本質に関わる話としては「国際人を育てる」(143頁)というところである。まず著者はここでいう国際人とは「世界に出て、人間として尊敬されるような人」と定義し、福沢諭吉や新渡戸稲造を例に出し、真の国際人に外国語は関係ないと断言する。私はこれは牽強付会だと考える。確かに幕末から海外に渡った日本人の武士クラスで外国人の尊敬を受けた人は多い。著者は「尊敬を受けた日本人は日本の古典や漢籍、武士道を身につけていた」という。それは事実であるが、では何故日本の古典等を身につけていたら尊敬されたのか?という分析が弱い。筆者は民族としての個性に尊敬の源泉を求める様だが、それは一方的な見方であろう。つまり欧米人は日本人の考え方が彼らの基準に照らして一致するところが多かったから評価したのである。例えば「正直」「廉潔」「勇気」「奉仕」というような徳目は当時の先進国で共通する徳目であり、日本人がそれを持っていたから尊敬されたのである。
筆者は日本人の特殊性を強調する余り、徳目の世界的共通性を見失っているのではないだろうか?
私が思うに真の国際人に必要なものは他者理解力である。もし教養というものが他者を理解するために使われないとすれば教養には何の意味もない。明治の日本人が欧米で尊敬されたのはこの他者理解力の高さの故ではないだろうか?この他者理解力が古典や歴史あるいは文学作品により養われることは明らかだろう。よって結論だけを言えば古典や文学作品の読書の必要性を強調する筆者と私は同意見なのだが、思考の経路は少し違うようだ。
繰り返して言うが結論的には共感できるところもあるだけに「国家の品格」は悩ましい本である。
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