相続問題で「最初から専門家に頼んではいけない」ということは前回のブログで書いた。
今回は話を少し深堀して、色々な問題は「専門家を先生と呼ぶから間違いが起きる」ということを考えてみたい。
私は相続学会という小さな学会の事務局を担当している。時々研究会などに顔を出すことががあるが、そこで違和感を覚えるのは、税理士や司法書士などがお互いを「先生」と呼び合っていることだ。まあ、大学教授や弁護士位は多少敬意を表して「先生」でも構わないだろうが、それ以外の「専門職」まで「先生」と呼ぶのは如何なものか?と感じている。
おそらくclientから「先生」と呼ばれ(人によっては先生と呼ばないと機嫌が悪い人もいるのかな?)ている内に、「先生」慣れしているのだろう。税理士や司法書士クラスを先生と呼んでいるのは、私が知る限りでは日本位ではないだろうか?
日本は業法により「専門職」の権益が保護されている。例えば税理士法により税理士しか「税務代理」「税務書類の作成」「税務相談」を行ってはいけないことになっている。この対極にあるのがイギリスだ。イギリスでは誰でもこれらの業務を行うことができるし、法律業務についても弁護士でない人がかなりのことができるはずだ。
では海外ではこれらの「専門職」は一般にどのように見られているのだろうか?
私が不動産ファイナンスの仕事をしていた米国での経験をもとにしていうと、これらの「専門家」の評価(=pay)は、案件を組成するバンカーなどに較べてかなり低い。バンカーは、開発業者と資金の出し手の条件をすり合わせ、ディールをまとめていくので、総合的な力が必要だが、「専門家」はディールに必要なパーツを提供するだけなので、その位置づけは低いのだ。
そう、「専門職」というのは実はパーツ屋(部品屋)であることが多い。会社にしろ個人にしろ、事業や人生は自分で設計し、関係者との利害の調整を行っていかなくてはならない。無論その過程で「専門家」を効率よく使うことは多い。だが主体はあくまでclientにあるのだ。「専門家」を先生と呼ぶことで、その主体性が曖昧になる可能性があると私は考えている。
まずは「専門家」を先生と呼ぶことを見直してみてはどうだろうか?もっともそんなことで貴方があてにしている「専門家」がへそを曲げては困るだろうから、ケースバイケースではあるのだが。
日本では教師を「先生」として崇めたてまつることから始めて、人間関係を一軸(主にお勉強能力)でしか捉えられない価値観が醸成され、知的サービスのクライアントとエージェントがフラットな関係を築きにくいのだと思います。
日本のバンクテラーも過大評価な職だとは思いますが。