「億劫相別れて(しかも)須臾も離れず」というのは鎌倉時代の高僧・大燈国師の言葉である。億劫つまり非常に長い間別れていても、気持ちは須臾(片時)も離れていない・・・と言う意味だと解している。その意味や格調高そうな表現が好きで私は会社のメールの書名欄の下にこの言葉をつけている。
「億劫相別れて須臾も離れず」という言葉を実感するのは、古い先輩・友人からブログのエントリーにコメントを貰ったり、フェイスブックでコメントを貰ったりする時だ。昨日も山岳部時代の某先輩から、今の山岳部の軟弱ぶりを嘆いた私の記事に共感するというお手紙をワザワザ頂いた。電子メールではなく紙の手紙だったのは、某先輩がある雑誌に寄稿された記事のコピーを同封されたからである。
この先輩とは久しくお会いしていないが、古い山の先輩・後輩の間には「同じ釜の飯を食った」という基盤から年を経ても通じる思いがあると改めて認識した次第。
ところで大燈国師の言葉には続きがある。「尽日相対して(しかも)刹那も対せず」である。
一日中顔を突き合わせているが一瞬として心が通うことがない・・・という意味だ。
パソコンや携帯電話の上を多くのメールなどが飛び交う。「どこで何した」など他愛もない多くの情報が流れるが、そこに心が通い合っているかどうかは疑問だ。当たり障りのない軽い人間関係の緩やかな輪が広がるが心はつながっているのだろうか?
メール、ブログ、フェイスブックなどを使うと遠く離れた距離や時間を簡単につなぐことができる。しかし幾ら言葉が飛び交っても、気持ちを共有する基盤がないと心は離れている・・・・ということを大燈国師は七百年離れた過去から現在に向けて教えてくれているのである。
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