昨日(24日)ビートたけしが東条英機を演じるテレビドラマ「日米開戦と東条英機」を見た。太平洋戦争の開戦是非を巡る陸海軍省・統帥部・外務省等の首脳陣による議論の場が主な舞台である。これを見ると今更ながら「日本には軍服を着て威張ったおっさん達は沢山いたが、兵学を真面目に勉強した人はいなかったなぁ」という思いがする。
兵学とは武器の使い方や戦闘隊形の組み方を勉強することではない。戦争をする・しないという判断を学ぶことである。その最高のテキストは「孫子の兵法」である。如何に当時の日本軍首脳が孫子の兵法の原理原則から外れていたかをざっと振り返ってみよう。
孫子の兵法の大原則は「戦争を回避する」ということである。謀攻編に「用兵の法は国を全(まっと)うするを上(じょう)となし、国を破るはこれに次ぐ」という言葉がある。軍略というものは国を傷つけずに勝つのを上策として相手の国を破るのはその次だという。そもそも自ら仕掛ける戦争とは何らかの「外交的目的」を達成するために行うもので、その目的を戦争以外の目的で達成することができるならばそれを優先するべきである。何故なら戦争は勝つにしろ国民の命を奪い、財産を無駄に費し国力を消耗するからだ。
孫子は「用兵の害を知らなければ用兵の利をも知ることはできない」と戦争のもたらす害を強調している。
次に戦争以外に自国の利益を主張する方法がないとして敵国と自国の強弱を冷静に判断しなければならない。そして相手が強いことが分かればどうするか?孫子は「若(し)からざれば能(よ)くこれを避く」という。つまり相手に勝てないと思う場合はおとなしくして避けていなさいというのだ。
孫子の考えは理詰めで戦闘能力・指揮命令・兵站を含めた兵力に大きな差がある場合、強い方が必ず勝つという。従って兵力が明らかに劣後するものは戦争を回避するしかないという結論になる。このような場合軍をあずかるものは「戦道勝たずんば、主は必ず戦へというも戦う無くして可なり」という。
どういうことかというと軍司令官は「勝つ見込みがない場合は、国主が戦えといっても戦わなくて良い」ということだ。ところがドラマを見ていると昭和天皇が参謀総長や軍令部長に「勝算はあるのか?」と質問されても、彼等の答は「十分な勝算がなくても、座して滅ぶより戦うべきです」というものだった。これは全く亡国の論理である。
彼等は「国と国民の目的を自分の目的に利用している」のである。多額の国民の税金を使い、高給を取り、国民には「帝国陸海軍は無敵だ」と豪語してきた彼等は今更「アメリカには勝てませんから戦争はやめます」と言えなくなっている。そんなことをいうと右翼や下級将校がテロを起こすだけでなく、重税や統制に喘ぐ国民からも石を投げつけられる。だから彼等は勝算がないまま、緒戦で勝てばアメリカに厭戦気分が広がるなどという根拠のない希望に一縷の望みを託して戦争に突入した訳だ。あるいはアメリカの仕掛けた罠に嵌って奇襲をかけさせられたというべきだ。
アメリカが罠を仕掛けたとしてもそれを卑怯といういには当たらない。孫子がいうように「兵は詭道(騙しあい・駆け引き)」である。戦争で大事なのは血を流す戦闘行為ではなく、その前段階の諜報活動なのだ。こちらの暗号は筒抜けで、相手の情報は得られない日本は戦う前から大幅に遅れを取っていた。孫子は諜報活動の重要性を繰り返し強調する。例えば「爵禄百金を惜しみて敵の情を取らざるものは不仁の至りなり」という。費用を惜しんで敵の情報を取らないものが何故不仁なのか?というと、情報不足で兵士の無駄死を起こすからである。兵士の損傷を惜しむヒューマニズムを持つ将軍であれば、敵の情報入手に費用をかけるはずだということだ。
この話、随分長くなったが最後は「彼を知らずして己を知らざれば戦う毎に必ず敗る」という言葉で締めくくろう。アメリカは戦前から日本の専門家を置いて日本のことを研究していた。しかし日本は「アメリカは歴史が浅く、臆病だ」などという根拠のない情宣を国民に行う内に軍の中枢部まで自分がはいた妄言に麻痺してしまったのである。
戦前軍事に淫した日本は戦後は軍事をタブーとしてしまった。振り子が180度逆に振れたがこれはどちらも間違いである。国を守るためには必要な国防軍を持つとともに、正しい兵学思想をあるレベル以上の国民がコモンセンスとして共有することが必要だと私は考えている。