ニューオーリンズが大変なことになっている。私にとってはアメリカの音楽の都――いや、都というイメージではなく「裏町」といった方がいいのですが。
今回の大災害で思い出すのはブライアン・フェイガンが『古代文明と気候大変動』(東郷えりか訳、河出書房新社)で書いたこと(この本については7月27日の日記で書きました)。
第1章「もろくて弱い世界に踏み入れて」でフェイガンは古代シュメールの都市ウルが、天候不順による飢饉と住民の逃亡で崩壊した様子を描く。それに続けて筆をニューオーリンズ(この本の表記では「ニューオリンズ」)に転ずるのだ。
1718年にフランス人がミシシッピ川の河口にニューオリンズを築いたところから始め、洪水との闘いが繰り返され、街が拡大するにつれて、堤防が長大になり、付随する設備も充実してきた過程を眺める。しかし、災害は止まらなかった。それどころか、いったん起こると被害は拡大する一方だった。防災設備が充実するにつれ、そこに集まる人や資産は増える。しかし、想定外の出来事はいつか発生するのだ。その時は未曾有の被害をこうむることになる。
フェイガンは書いている――
- シュメール文明のウルの場合なら、考えられる最大規模の洪水でも、奪われたのは数千人の命だろう。水が引けばすぐに、生き残った者たちは畑に再び種をまき、壁を修復する作業にとりかかっただろう。ところが今日では、人口100万人の都市と何十億ドルもの社会基盤の運命が、大陸の半分を流れ、ますます油断のならない河川の水をわれわれがどう管理するかにかかっている。ニューオリンズは100年ごとに訪れる洪水に対しては安全になったが、1000年、あるいは1万年に1度の規模の洪水に関しては、無事を祈るばかりである。
フェイガンの予言はあまりにも早く事実となってしまった。
災害への脆弱性は文明の宿命だと、フェイガンはいう。我々の文明が発展すればするほど、それに応じて待ち構える災厄は巨大化するのだ。
私たちはただ祈るだけでなく、何かの手立てを考えておくべきだと思いました。たとえば、水没する可能性のある家屋には避難用のボートを備えておくとか。