今年2月に出た斎藤たま『落し紙以前』(論創社)を読んでいて、「あれまあ」と思いました。星新一さんの初期の代表作「ボッコちゃん」に関連すること。
星さんの「ボッコちゃん」は美人のロボットである。バーのカウンターに座っていて、お客と他愛のない会話をし、お酒を飲む。この会話が初歩的な人工知能の会話プログラムとそっくりで、まだそんなものが出現しそうにもない頃に書かれた作品だけに「さすがは星さん」と感心します。
で、問題はこのロボットの名前なのですが、なぜ「ボッコちゃん」でしょう?
いや、今までは別に問題だとも何とも思っていませんでした。語感がいいし、宮沢賢治の「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」などから、可愛い印象があります。ぴったりのネーミングだと思っていたのです。
ところが『落し紙以前』の最後の方に、次のようにありました――
- ウンコ系ばかりでなく、別の種類の名前もある。岩手の大船渡市赤崎でのボッコ、同長崎でのボンコ、これは「棒コ」ででもあろうか。柔らかめのものなら地面で渦にも巻く。しかし、よっぽど「うーん」も必要なぐらいのは、棒のように真直ぐ横たわるのである。
「ボッコ」に「ちゃん」をつけて「ボッコちゃん」。まさか星さんが意識的に「ウンコちゃん」と名づけたとは思えませんが……。
ついでに、「童子」をなぜ「ぼっこ」と呼ぶのかも気になります。
これは同書で著者の斎藤たまさんが紹介していることですが、琉球圏では子どもが生まれた時、「糞(くす)生(ま)ーれた」というそうです。例の邪視信仰によるもので、美しいもの、可愛いものを素直にそう呼ぶと、悪い神さまがねたんで取り上げてしまう。そのことを怖れたのです。「ボッコ」もこれと同列なのでしょうか。
いや、むしろ「ボッコ」は「坊や」「坊ちゃん」の方に近いような気もします。「坊や」や「坊ちゃん」は「坊主」に同じで、「坊主」は「坊(僧侶の住居)」の「主」、つまり僧侶のことです。でも、なぜ子どもが坊主なのでしょう?
ああ、わけがわからなくなった。単純な音の連なりなので、あれやこれやが混線している可能性もありそうですね。
汚い話題ですみませんでした。でも、斎藤さんのこの本は愛すべき一冊なんですよ。