朝刊で村上さんの生原稿流出の記事を読んで、いったいどういうことなのか、詳しく知りたかったのです。俄かには信じがたい、あり得ないような出来事。
村上さんのエッセイは、安原氏との付き合い(デビュー前にジャズ喫茶をやっていた頃からのことだという)を時間を追って記述し、最初、村上さんを絶対的に認めていた安原氏が、ある時から突然、態度を変え、敵視するようになったこと(理由はわからないらしい)などを綴っている。
古書店やウェブのオークションに流出している生原稿は、当然、それ以前に渡したもの。安原氏が勤めていた中央公論社(当時――今は中央公論新社)では、作家の生原稿を倉庫に保管するようにしているという。ところが、村上さんによれば「一部の担当編集者がその(森下註:印刷所から戻ってきた)生原稿を社に戻さず、自宅に持ち帰って勝手に保管していたらしい」とのこと。安原氏はどうやら生前からそれらを古書店に売り渡していたようだ。
生原稿は誰のものかという問題は、私自身、これまではっきりと意識したことはありませんでした。昔、原稿用紙を使っていた頃、編集者に渡した後でそれがどのようになっているのかを尋ねたこともありません。ただ、一部の出版社は後日、印刷所への指示の赤字が入ったものを包装して返却してくださり、「丁寧なところだなあ」と思ったりしたものです。
今にして思えば、まるで権利意識のないバカなもの書きのようですが、「活字になった後の原稿は不用なゴミ」ぐらいに考えていたのです。実際、私の原稿はゴミとして処分されたと思います。
しかし、著名な作家の生原稿となると事情は違います。価値ある文化財ですものね。
それを書かせた編集者が、自分の宝物のように思って手元に置きたいと思うこともあるかもしれません。しかし、会社に所属して仕事をしている人は、職業倫理としてそれをしてはならないと心得ているはずです。
勝手な想像ですが、安原氏は彼独自の理想の「文学」にのめりこむあまり、その倫理を超越してしまったのではないでしょうか。自分と「文学」は特別な関係を取り結んでいる。だから、自分が作った宝物は自分で持っていていいんだ、と。
しかし、晩年になぜそれを売りさばいてしまったのか。
「文学」に裏切られたからでしょうか。それとも彼の方から「文学」を裏切ろうとしたのでしょうか。
いずれにせよ、いたたまれない話ではあります。