山内昌之著 新潮新書 680円
面白い本である。半日で読んでしまった。歴史を動かした「大いなる嫉妬」にまつわる古今東西のエピソードの中には良く知っている話もあるが、新鮮な話題もあった。
私が見たところこの本に出てくる嫉妬のパターンの一つの典型は「秀才が天才を嫉妬する」というものだ。
天才と秀才の違いは何か?それはヴィジョンの有無であろう。いやここに出てくる秀才の中にも小さなヴィジョンを持っていた人はいるが、やはり天才が歴史の彼方に放つ光芒とは較べるすべもない・・・・
(島津)久光をただ嫉妬深いだけの小人物と考えるのは正確ではない・・・・政治的リアリストでもあった久光は、西郷のなかに個人の業績を超えて歴史に残る思想の厚みを、幕末以来いちはやく感じ取っていたのではなかろうか。自らが到底叶えられない歴史の神話につながる西郷の大きさを感得したとき、久光の不安は狂おしい嫉妬へ変ったとでもいえばよいだろうか。(第一章 臣下を認められない君主)
昭和の陸軍軍人で「天才」といえるのは、石原莞爾ただ一人といってよい。・・・・・これに比べると、東条の足跡は影が薄い。しかし、彼を単純な凡才と見るにはあたらない。・・・・ナポレオンや石原莞爾レベルの天才肌の戦略家と、東条英機やアイゼンハワーなど平凡な秀才官僚との懸隔は、あまりにも大きい。・・・・・石原は死の直前、東条告発の証言を迫る連合軍関係者に、「東条には思想がない」「僕には思想があります」「思想のない東条とは対立のしようがない」と軽妙かつ逆説的な東条弁護をして、外人を煙に巻いている。(第六章 天才の迂闊、秀才の周到)
とくに近藤 勇は、伊東甲子太郎(きねたろう)の弁舌の才にも優る構想力と文章力に対して、物狂おしい嫉妬を感じたのではないだろうか。・・・・・素朴な形とはいえ、伊東が新国家や国民皆兵の構想を描いている点こそ重要なのである。近藤はついに、こうしたヴィジョンを表せないままに終わったのだ(第三章 熾烈なライバル関係)
この本に出てくる多くの「天才」は「秀才」の陰謀にかかり、不幸な終末を迎える。それは天才が持つ脇の甘さ故のことだろうか。
天は二物を与えずということなのだろうか?
この本はまた組織に生きる我々サラリーマンにも箴言の書になる。
成功者は自分の考えた通りに人生や仕事がうまくいった話を他人に聞かせたくなるものだ。そのために失敗する事例も少なくない。・・・・他人には、思いがけなく成功したといっておけばよいのだ。すると、奴は幸運が味方をしたにすぎない、俺は少しばかり不運なのだ、運のせいにすることもできよう。(序章 ねたみとそねみが歴史を変える)
著者は終章 嫉妬されなかった男で「いったい世界史で大きな成果を上げながら、嫉妬を受けない人物などがいたのであろうか」と問い、「奇跡的にもいた」と答え、徳川三代将軍家光の庶弟・保科正之を上げる。
それは一条の救いではあるが、「奇跡的にもいた」ということこそ、成功し権力・名声を得た人間が他人の嫉妬から逃れることが如何に難しいかということを如術に語るものだろう。
以上