12月18日日曜日楽しみにしていた男たちの大和にワイフと出かける。映画館はいつものTジョイ・大泉だ。上映時間が一番早い午前9:35分スタートに合わせていくが結構良い席は取られている。中々人気の映画だ。館内に入ってみると年配の方が多いが小学生を連れた若い夫婦もいる。人気の若手スターを使っているだけのことはある。私は余り若手のスターに関心が高くないのだが、今回の主役の一人反町隆史については軍服が良く似合う男だと前から気に入っている。私は軍服とか制服が似合うということが日本の映画界のスターの条件ではないかと考えている。軍服・制服が似合うということではこの映画には出演していないが高倉健である。高倉健の鉄道員や八甲田山など実に良い。軍服や制服は世の定め・規律を象徴し、主人公達はその桎梏の中で精一杯人間らしく生きようと苦悩するのである。その抑制された苦悩の中に男の美しさがある・・・・これは歌舞伎等日本の伝統芸術にも繋がる大きなモチーフだろう。
男たちの大和も事実上の玉砕のための出撃という避けられぬ定めを男たちがじっと受け止め、自分達の死の意味を自分達で納得しようとするところに男達の苦悩と美しさがある。
長島 一茂演じる臼淵大尉が言う「歴史的に見て日本は敗れてしか目覚めることができない。自分達はそのための捨石になるのだ」という主旨の言葉は若いインテリの納得の仕方を示している。もっとも兵達がそれを完全に理解できたかどうか分からないが。そもそも生死の意味はそれ程簡単に割り切れ要るものでもないのだろう。特攻戦をを生き残った神尾(仲代達也)は大和における生と死の意味を60年経って初めて分かるというストーリーになっている。
ところで歴史にはモメンタム(慣性・勢い)というものがあり、理性や理屈では止まらないものなのだろう。戦略・戦術総ての面から見て大和の沖縄出撃は無意味なものであったが、大和が背負う栄光が大きいだけに大和が撃沈されることなくしては帝国海軍は幕を引くことができなかったのであろう。3千余名の戦死者は敗戦のために欠くことのできない犠牲者だったのである。歴史は貴重な血の上でしか方向転換できないものなのかもしれない。中々重たい2時間半の映画であった。