養老猛司氏の「死の壁」(新潮新書 680円)を読んだ。一言でいうとこれはすごい本である。何故すごいかというと医学、哲学、社会心理学、歴史等に関する深い洞察が詰まっている。表現は平易だが内容は深い。ただし各項目の連携はあまりないので時としてテーマの切り替わり若干戸惑う時もある。筆者はあとがきの最後の部分でこう述べる。
これで自分の中に溜まっていたものは、ほとんどすべて吐き出したと思います。逆さに振っても、もう何もでない。
当代を代表するような学者がすべてのものを吐き出したのだから内容が豊富で深くない訳がない。という事でとにかく一読をお勧めするが二つ印象に残ったテーマについて感想を述べる。
一つは終章の中の死の恐怖は存在しないという話だ。筆者は「自分の死について延々と悩んでも仕方が無いのです。そんなのは考えても答えがあるものではない。」「極端に言えば、自分にとって死は無いという言い方が出来るのです。」「死んだらどうなるのかは、死んでいないからわかりません。」という。この考え方はギリシアの快楽主義哲学者エピクロスの「死はわれわれにとって無関係である。なぜならわれわwれが現在するときは死は現在せず、死が現在する時にわれわれは存在しないから。」という言葉とまったく符合する。
また禅宗では自分の死後のことなど考えてもどうにもならないとこを考えることを莫妄想(まくもうそう)という言葉で戒めている。妄想するなかれということだ。また孔子は言う「我いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」
これも筆者と同じ考えである。結論に至る思考過程に違いはあるかもしれないが、結論は自分の死後のことなど考えても意味が無いということなのだ。
もう一つ筆者に強く共感するところを紹介しよう。それは軍国主義者は戦争をしらないという項で述べている戦争に外交の手段という側面は間違いなく存在しているのです。しかし、日本人にはその感覚が無さすぎた。・・・つまり「外交」が抜け落ちて軍だけが走ってしまったということです。政治の一手段だったはずの戦争が、むしろ逆に目的になってしまった。という部分である。
私は手段が目的化する傾向というのは日本人の一つの特性ではないか?と考えることがある。例えば企業社会におけるリストラだ。リストラの目的とは本来会社を強くするためのリ・ストラクチャリングつまり再構築であり人を削減することではない。人を削減することは時としてリストラの有力な手段ではあるが、決して目的ではない。ところが時として人減らしが目的化する・・・・。
ではどうして日本では手段が目的化する傾向があるのだろうか?これは自己流の推測だが、日本人が形を重視することにあると見る。武道・茶道・華道総て形だ。形が総て悪い訳ではない。形は技術を確実にはば広く伝達する手法である。形は時に集団の精神を規定する。しかし形は手段であって目的ではない。例えば武道で形を守って負けてしまってはどうなる。死があるのみだ。例えば元寇の時日本人は日本流の戦闘方法を取ったため最初大敗北を喫した様だ。もっともその後集団戦法に切り替えて対応した様だが。
つまるところ日本人は日本列島という閉鎖的な地域で長い間暮らしてきたので、独自の形の文化を形成してきた。その中で形を重視する余り時として形=手段が目的化する傾向が醸成されてきたと私は考えている。