最近のショッキングなニュースは、「イスラム国による捕虜としていたヨルダン軍パイロット・カサースベさんの焼殺」だった。
イスラム教では「死者は最後の審判のあと、肉体を持って復活する」という明確な教義を持っているから、肉体がないと復活できないと考えている。だからイスラム教の遺体の葬り方は「土葬」である。またイスラム教では地獄は業火のイメージを伴うから、火葬は死者に地獄の苦しみを与える仕打ちと考えられている。従ってカサースベさんの焼殺事件は我々が想像する以上にショッキングで、死者を冒涜する行為とイスラム圏では受け取られているだろう。
ところで世界の遺体の葬り方を見てみると大きく分けて「土葬系」と「火葬系」がある。「土葬系」の代表は、ユダヤ教に起源を持つキリスト教とイスラム教だ。
一方「火葬系」の代表はヒンドゥー教である。私は数回ネパール最大のヒンドゥー寺院・パシュパティナートで火葬の現場を遠望したことがあるが、ある種の厳粛さに深い感銘を受けたことを覚えている。
輪廻転生を大前提とするヒンドゥー教では、死者は必ず六道のいずれかに生まれ変わると信じている。だから肉体を重視しない。肉体は魂の乗り物に過ぎず、極端な言い方をすると「蛇の脱け殻」的な存在である。ヒンドゥー教徒は死期を悟ると寺院内の死を待つ部屋に移り、静かに死を迎える。遺体は原則長男が火葬し(坊さんは関与しない)、遺骨は聖なるガンジス川に流される。それがヒンドゥー教徒の最高の死の迎え方なのだ。
一方イスラム教徒にとって、最高の葬礼は死者を死者がメッカに巡礼した時の巡礼衣に包んで埋葬することだという。
さてこのイスラム教とヒンドゥー教の葬儀の仕方を天と地ほどかけ離れたものと見るか、生活環境の違いからくる葬儀方法の違いで宗教が教える根本的なところは余り差はないと見るか、という二つの見方ができると思う。私は後者の考え方に立っている。
湿潤なインド亜大陸では土葬は不衛生なので火葬が選択された。一方中東の荒涼とした乾燥地帯では、火葬を行うための薪を集めるのが困難で、一方埋葬する土地には事欠かないので火葬がとりおこなわれていたと考えている。そしてそれぞれの地域の宗教は、そのような葬儀の風習を正当化するために後付されたのではないか?と考えている。
むしろ「敬神・驕りの戒め」「戒律の順守」「富への執着の禁止」「布施」などの教義や生活規範の面に着目すれば、意外に二つの宗教の差は大きくないのかもしれないと私は考えている。
インドでは薪による火葬が公害問題から制限され、近代的な火葬炉による火葬が進みつつあるそうだ。遺体の葬り方は社会環境の変化により変化せざるを得ない一例だろう。であるならば遺体の葬り方よりももっと宗教のコアの部分に着目した方が良いのだろう。
無論このことは相手が信じる宗教の重要な禁忌事項を犯して良いということ言っている訳ではない。相手の宗教的慣習を尊重しながら、その背景を考えてみるという話である。