今年の秋はネパールのゴサインクンドという聖地へトレッキングをしてみたいと考えている。
ゴサインクンドは首都カトマンズの北にあるランタン山系の入り口にある標高4千mを超える高地で108つの湖があると言い伝えられている。
108というのな仏教が教える煩悩の数である。そう、そこは仏教徒とヒンドゥ教徒がともに聖地としてあがめ、毎夏多くの人が巡礼に訪れる。エルサレムがキリスト教・ユダヤ教・イスラム教という一神教の聖地であるのと軌を一にするのだろう。
私は特に強い宗教心を持っている者ではないが、聖地には魅了される。
古来聖地に憧れる人が多かったので巡礼の旅というものが盛んだったのだろう。こんなことを言っては宗教心の強い人には叱られるかもしれないが、聖地巡礼には遊びの要素もある。代表的なものは日本のお伊勢参りや落語で有名な大山詣などだろう。
もっとも五体投地をしながら聖山カイラスの周りをまわる熱心な仏教徒の姿を見ると遊びの要素など微塵もないとも思うが。
人はなぜ聖地を憧れるのだろうか?
それはひと時なりとも「聖なる環境に身を置き至高体験をしたい」からだと私は考えている。至高体験というのは、欲望五段階説で有名なマズローが唱えた概念で「深い感動を伴う個人としての最高の体験」を指している。
我々俗っぽい人間は「悟り」などとは程遠いが、ひと時なりとも至高体験をすることでこの世界と人生のすばらしさを感じることは可能だ。
高い山の上で朝日が昇るのを見ると多くの人が素晴らしいと感動する。その感動が至高体験なのだ。「至高」に比較級があるのは変だが、やはりより聖なる場所から朝日を拝む方が「至高」度合いは高いのではないだろうか?と思い、4千mを超えるヒマラヤの聖地へトレッキングという現在の巡礼の旅にでようと私は考えている。
もっとも宗教心の乏しい私の巡礼は、一日山を歩いた後はビールを飲んで歓談のひと時を過ごす。ただ高度が上がるにつれお酒の量は減ってくる。高山病を警戒して体があまり受け付けなくなるようだ。恐らく4千mを超える宿泊地ではお酒は一滴ものまないかと思う。また高所では肉はなく野菜中心の食事になる。
高所への巡礼の旅は、自然に潔斎するようにできているのである。そしてそれが至高体験につながっていくのだろう。