高齢化時代に入り、「生涯学習」をいうことが改めて脚光を浴びています。
さてその学習の対象はなになのでしょうか?
少し前の文部科学白書を見ると「社会・経済の変化に対応するため、人々は絶えず新しい知識や技術の習得に迫られている」と書いてあります。平たく言うとパソコンが普及してきたからパソコンを操作する知識を、スマートフォンが普及してきたからスマートフォンを操作する技術を身に付けなさいと言っていると思います。
もちろん現代社会の中で積極的な生き方を続けるためには新しい知識や技術を習得することは必要です。そのための勉強は脳を活性化し、ボケ防止につながることは間違いないと思います。
しかし社会や経済の変化に終わりはなく、それに対応する知識や技術の革新にも終わりはありません。限りのある人生をもって終わりのないものを追いかけるのは、少しむなしい気がします。それは終わりのないものを追いかけている間にもっと大事なものを見失っているのではないか?という気がするからです。
生涯学習という言葉は今出来の言葉ではありません。江戸末期の儒学者佐藤一斎は「少(わか)くして学べば、則ち壮にして為すところあり。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず」と言っています。私はこの原典(言志晩録)を詳しく読んでいないので、佐藤一斎が「なにを学べ」といっているのかは断言できませんが、技術革新の速度が緩やかな江戸時代のことですから、新しい知識や技術を学べと言っているのでないことは確かです。
推論すれば「人生の真理」のようなものを学び続けなさいと一斎は言っているのだと思います。
「人生の真理」とは何か?それは人は生まれて死ぬという当たり前の道理を腹に落として知ることだと思います。
「生まれては死ぬるものなり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」と言ったのは一休禅師です。この当たり前の道理=真理は私にも分かるのですが、腹に落ちているとは言えません。
総ての個体は死ぬ。しかし命の連環は続いていく。むしろ個体が死ぬことで、新しい命が育つ場所を提供することができる。それによって種としての命は続いていく・・・
理屈では分かるこの種としての命の連環を腹に落として理解し、それに相応しい行動をとることを学ぶことが本当の生涯学習の目的ではないか?と私は考え始めています。もっとも未だ頭での理解の域を出ませんが・・・