この前「化身と輪廻転生」というエントリーを書いた。
その続きで「輪廻転生」について私なりの解釈を述べてみよう。
「輪廻転生」というのはインド的死生観である。これに対して「最後の審判型」死生観というのは大雑把にいうと中近東・ヨーロッパ型死生観といえる。人口の点で残る大きな地域は日本・中国などの東アジアであるが、この地域の死生観を一言でまとめるのは難しい。
敢えてずばっというと「現世重視型」(死後の世界は関知しない)である。それは孔子の「我未だ生を知らず 焉んぞ死を知らんや」という言葉に端的に表れている。「生きている人生ですら分からないのに、どうして死後のことなんか分かるものか」という意味だ。
こんな大雑把な切り口は当然反論があるだろう。孔子だって祖霊を祭っていたではないか?日本人だって仏様に後生を祈るのではないか?と。
だがこれまた大雑把に切ると「日本人は薄い仏教徒であり薄い神道家」であり恐らく中国人はもっと薄い仏教徒か道教徒なのである。
「薄い」というのはここでは「知識や習慣として宗教を受け入れている」という意味で、神や仏が行動規範にまでなっていないと考えられる。
反対の「濃い」というのは、神仏を絶対的なものとして、生きる上での規範として受け止めていることを指す。
つまり舞台装置は違えど、インドや中近東・ヨーロッパ(最近は無宗教の人が増えているが)では、宗教が教える死生観を規範として人々は暮らしてきたと考えることができる。
さて「舞台装置が違えど」と述べた。「輪廻転生」と「最後の審判」では死後の世界は随分異なる。しかし生きている時の精神面について見るとそれ程の違いはないいうことができると私は考えている。
つまり「神など絶対的なものに対する敬虔」「戒律の遵守」「喜捨」「貪欲の戒め」などは、世界的宗教に共通する価値観ということができる。
私は死後の世界観に「輪廻転生」と「最後の審判」の違いがでたのは、その宗教が生まれた気候風土の影響が大きいと考えている。高温多湿のインドおよびネパールの南部では、動植物が大いに繁殖する。森に入ると倒れた木の後に若い木が育ったり、昆虫が育つのを見ると輪廻転生ということを古人は思いついたのではなかろうか?
結論をいうと「輪廻転生」も「最後の審判」も「正しい生き方をしなさい」という教えなのである。そして「正しい生き方をすれば死後の世界で報われるから死を思い悩む必要はない」という教えなのである。
その点では舞台装置は違っても、目指すところは同じと言えると私は考えている。
さて輪廻転生を私なりに現代的に解釈してみよう。悪いことをした人が地獄に墜ちたり、餓鬼道に生まれ変わるということは科学的にはあり得ない。しかし悪い生き方をしていると一般的には子どもや子孫は悪い生き方を真似る傾向がある(反面教師として良い生き方をする場合もあるが)といえる。また周りの人が「あの親の子だから」と既成概念で子どもや子孫を判断することも多いだろう。そしてその逆のケースも多いと思われる。
子どもや子孫を自分の生まれ変わり(遺伝子的にはまさにその通り)だから、良い生き方は子どもや子孫に良い影響を及ぼすことが多く、悪い生き方は悪い影響を及ぼすことが多いのである。
「良い生き方」とは一言でいえば、満ち足りた生き方である。「輪廻転生」とは結局のところ、多くの人が答のでない死後の世界に迷うことなく、満ち足りた生き方を送るために、数千年前の知恵者が考え出した一つのフィクションである。
そして今日的に考えても、ある種のリアリティを持ったフィクションなのだろうと私は考えている。