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金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
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「覚える山登り」から「考える山登りへ」~Compasses over maps

2017年11月25日 | 

2日ほど前大阪で大学山岳部時代の同級生たちと飲む機会があった。仲間の何人かはOB会の重鎮になっているので、話題は現在の現役(大学山岳部の部員)がどんな山登りをしているのか?という話になった。

その中で今年の夏、山岳部の連中が北アルプスの岩場の下山路で道に迷い、外部の人の力を借りて下山したことが話題になった。

私は詳しい状況を知らないし、特に詮索するつもりもない。ただそれに関する仲間の議論を聞いている内に、今の学生さんは「覚えること」には熱心だが「考える」更に言うと「直観力を養う」訓練が欠けているのではないか?という印象を持った。

山に関して覚えることとは、岩登りの技術を習熟するとか登る山やルートについて事前に資料を読むということである。これらのことは大切だが、勉強のやり過ぎは時として考える力や直観力に耳を傾ける感性を弱める可能性がある。

このことは受験秀才と呼ばれた人が社会に出てから往々にしてあまり活躍できないことと共通している。

人間のリソース(時間・脳のキャパシティなど)には、限りがあるので「既存の枠組みを学習する」ことにリソースを割き過ぎると、「考える・直観力を鍛える」ことにリソースを割くことができなくなるからだ。

偶々だが、今月号(12月号)の文芸春秋に探検家・角幡唯介さんの「日高山脈地図なし登山」という一文が載っていた。

角幡さんは地図を持たずに日高山脈のある大きな沢を一人で登っていて、広大無辺な大河原に出会う。彼はこの河原を「王家の谷」と呼ぶことにしたと書く。「王家の谷」がどこのことだかは明らかではないが、彼はその後日高山脈にある立派な山への登頂を果たして11日間の登山を終える。

角幡さんはこう述べている。「地図は登山においてもっとも基本的な装備のひとつだ。安全性以前の問題として、地図がなければ現在位置がわからないし、さらにそれ以前に地図を見ないと具体的な計画すら立てられない。・・・・だが同時に、じつは地図こそもっとも登山の可能性を狭めている元凶なんじゃないかという思いが私にはあった。」「登山とは生の山が持つ本来の荒々しさの中に身を投じたときに初めて見えてくる何かのなかにある、とも思う。」

私は日高山脈のような大きな山に地図なし登山をすることはないし、他の人にも地図なし登山を勧めることはないだろう。

だがそれでおもなお角幡さんの言葉には共感するところがある。我々は地図を持つことで「安全性や確実性を確保したと信じながら」、「未知との遭遇」という山登りの根源的な楽しみを放棄しているという主張に共感する。

更に付け加えると「安全性や確実性を確保した」という思い込みが「考える力」や「直観力」を鈍化させるのである。

地図に頼り過ぎると地図を読むことができない状況(深く大きな沢の中では今なお地図が不確かなこともある)に陥るとお手上げになるのだ。山のルートは崩壊などで大きく変わることがある。過去の記録を頼んで山登りをしていると状況変化に対応できないだろう。

山登りでもっとも大切なことは、感性を働かせて、山を感じることである。山を感じた時私の経験ではルートが見えるのである。

MITメディアラボが提唱しているCompasses over mapsという言葉がある。「地図よりも磁石を大事に」という意味で、細部よりも全体の方向感が大切だという概念だと私は解釈している。

実際の登山では地図も磁石も必携品だ。だがなお登山にもビジネスにもcompasses over mapsという意識は重要だと私は考えている。

なお類似した標語でLearning over educationという言葉もある。教育より持続的学習が重要と意味だ。技術革新の速度が速い時代では「教育を通じて覚えた知識」は陳腐化するので、持続的な学習が必要ということだ。

登山技術や用具は変化ていくので、そればかりを追いかけていると本質を見失うことがある。本質は山を感じる感性を大切にして、考える力をつけることだと私は手前味噌な解釈を下している。

 

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