金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

徒然草を読む(6)~歳を取ったら暇が一番

2020年05月12日 | ライフプランニングファイル

今政府は70歳までの就業機会に向けて動き始めている。働く意欲がある人に仕事の場を提供することは理念としては良いことであるが、意欲だけが空回りしてもemployarbility(雇用される能力)がないと雇う側や働く仲間の負担が増える。また本人も惨めな思いをする。

兼好法師は「だいたい五十歳になったら、社会的な仕事は全部やめてゆとりある時間を確保することが好感がもて理想的なのだ」(おほかたよろずの仕業はやめて、暇あるこそ、めやすくあらまほしけれ)と述べている。

同じ段落の中で兼好法師は「五十歳になっても玄人の域に達さない芸は止めた方が良い。老人が大勢の中に混じっているさまは不調和で見苦しい」とも書いている。

兼好法師が生きた鎌倉後期から室町時代初期にかけての平均年齢は24歳という説がある。平均年齢から考えると当時の50歳は現在の65歳~70歳と考える必要があるだろう。一方当時は幼児死亡率が高かったので平均寿命は短いが成人後の活躍年齢で見ると現在とあまり変わらないという見方もできる。

たとえば鎌倉時代の御家人の引退年齢が70歳だったといわれていることを見ると、兼好法師の50歳退職論は一種の早期退職論ということも言える。

技術革新がほとんどなかった兼好法師の時代と違い、現在は極めて技術革新の激しい時代だ。過去の経験はプラスにならないどころか、それにしがみ付くとマイナスになる。高齢者にとってemployabilityの確保が難しい時代なのだ。その意味では現在の方が高齢者にとって働き難い社会と言えないこともないだろう。

早期退職を勧めた兼好法師だが、法師自身は食べるに困らない資産と収入の道があったようだ。このことは機会があれば述べてみたい。

一定年齢を越えて働くにせよ、退職して好きなことをして暮らすにせよ、それなりの勉強と自己管理が必要なことは間違いない。そして求められるものは現在の方が兼好法師の時代より大きいかもしれない。

 

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徒然草を読む(5)~大勢の中の一人に向かって話す

2020年05月12日 | 本と雑誌

コロナウイルス騒動以降仲間と居酒屋に行ってワイワイ話すことはなくなり、最近ではZoomなどを使ったオンライン飲み会を催すようになった。

オンライン飲み会は中々面白いものだが、しゃべり過ぎる人がいたり、ほとんどしゃべらない人がいたりと主催者側としては気を使う場面もある。飲み会の参加者を適当な人数に絞ったり、心から共有できる話題を持った人に絞るのが良さそうだ。しばらくすると「オンライン飲み方の楽しみ方」なんて本が出てくるかもしれない。

さて徒然草にも「会話のマナー」について書かれた部分がある。

「久しく隔たりて会ひたる人の、我が方にありつること、数々に残りなく語り続くるこそあいなけれ」

「長い間会わずにいた人と久しぶりに会った時、自分の話題ばかり次から次へとしゃべり続けるのは不愉快だ」ということで、これは我々も経験するところだ。

人の長話に不快感を覚えるけれど、逆の立場になって延々としゃべり続けていることはないだろうか?コロナウイルス騒動で長い間友人としゃべる機会がなく、いざ話す機会が到来すると自分の話に没頭するなどというマナー違反は避けたいものだが・・・

さて兼好法師の次の一言は中々興味深い。兼好法師は「良い人が話をする場合、大勢の聞き手の中の一人に向かって話すのだが、それを自然に他の人も傾聴するものだ」という。

原文は「よき人の物語(ものがたり)するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから人も聞くにこそあれ」だ。そして兼好法師は「よからぬ人(教養のない人)は大勢の中にしゃしゃり出て、誰に対するでもなく、見てきたような話をする。満座の人が爆笑して騒々しい」と批判している。

この辺りは賛否分かれるところかもしれない。面白い話をして座が盛り上がれば良いという意見もあるだろう。しかし深みのある話をするならば、兼好法師のいうように一人に向けて話すのが良いかもしれない。

私はただ一つの正解があるとは思わない。集まりの目的や仲間の数、つきあいの程度などで話の運び方は異なる。ただマイクの独り占めを避けるのが、昔も今も変わらない会議のマナーであることは間違いない。

 

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徒然草を読む(4)~旅の新鮮さが懐かしい

2020年05月12日 | ライフプランニングファイル

コロナウイルス感染防止策が始まってから「移動」の自由が制限されてしまった。そのことでストレスが溜まっている人は多いと思う。何事によれ自由が制限されるとストレスが溜まるが、より大きな自由の制限はより大きなストレスを生む。

移動の自由というものは我々人間が持っている自由の根幹をなすものだ。だから移動の自由の制限が招くストレスは大きいのだ。

日本国憲法は22条1項で次のように述べている。

「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」

現在緊急事態宣言で「在宅」が要請されているのは「移動」つまり外出や旅行がウイルス感染を拡大させる可能性があり、公共の福祉に反するから自粛が求められているのだ。

だがこの状態が続くことはストレスを生む。何故在宅を続けることがストレスを生むのか?

その答えが徒然草の中にあった。

兼好法師は「いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ目醒むる心地すれ」(第十五段)と語りかける。

「どこでもよい、ちょっと旅をすると目が覚めるような新鮮な気分になる」というのだ。

旅には絶えず発見があり、それが心を新鮮にし、リフレッシュするのだ。

兼好法師は「さようの所(田舎びたる所、山里など)にてこそ、よろづに心遣ひせらるれ」

「自分の住んでいるところをはなれて田舎を旅すると心配りが細やかになってくる」と述べている。

我々の心は新鮮なものに触れて垢を落としてやらないと劣化するように仕組まれているのである。

その仕組まれた本能ゆえに人類は遠くに旅し、自分達の居住地域を拡大し、今日まで発展を続けているのである。

 

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