【一人テントは読書の時間】
14日金曜日の夜は戸隠キャンプ場に一人でテントを張り、チビチビとハイボールを飲みながら、ゆったりと流れる時間を味わった。
暗くなってきたので車のテレビを見ようか?と思ってスイッチをひねったがテレビが映らない。カーナビについているテレビはワンセグでキャンプ場は圏外だったのだ。そこで少し早いが読書タイムにする。静かなテントの中で本を読むとはかどる。いや、最初は静かだと思っていたが、夜の帳(とばり)が降りると自然は饒舌なことに改めて気がつく。カラマツの枝をサワサワと揺さぶる風の音。カラマツの林の中には小川が流れていて、水のせせらぎが聞こえる。戸隠牧場からは牛の鳴き声が聞こえてくる。これらをバックグラウンド・ミュージックに本を読み進む。親しい友だちと焚き火を囲み酒を酌み交わす一夜も良いが一人でページをくる夜も悪くはない。
【知的ストレッチ入門読後感想】
山に来る前に本棚を見ていたらこの本が目についた。2年程前に買ってサッと読んだ文庫本だがもう一度読んでみることにした。私はこの手の本(ハウツー本というのかな?)は余り買わないのだけれど、当時著者の日垣隆さんに共感するところがあったので買った次第。余り買わないハウツー本だけれど、買った時はさらりと読んで手っ取り早く利用できるところは利用し、その後は暫く本棚に寝かせておく。そして再び読んで「置いておく意味がない」と判断した場合は処分し、時間がたっても役に立つと判断した場合はまた暫く手元に置くことにしている。
IT技術の発展など変化の早い時代に数年間耐えるハウツー本というのは多くはない。
さてこの「知的ストレッチ」だが、平成18年に単行本として刊行され、大幅に加筆修正され平成22年に新潮社から文庫本になった。iPhoneやツイッターのことは文庫版で追加されているが、今はやりのFacebookについては一言も触れられていない。だから読む意味がない、という訳ではない。むしろFacwbookのことなんか書いてなくても、時代の流れを越えた背骨のようなものがあるのか?というのが僕の関心事だった。
テントの中で読んで興味あり、と感じたところを幾つか紹介しよう。
- 教養や知性というものは、たいてい羞恥心によって培われてゆくものなのかもしれません。恥ずかしいと思わなくなったら、おそらく進歩は止まってしまいます。
- 仕事には、早く大量に処理することに価値がある仕事と、その人にしかできない仕事の2種類があります。・・・・このような仕事の2分類は、個人にだけではなく、企業にも当てはめることができるでしょう。・・・どんどん忙しくなる企業というのは、安くて大量生産という構造の中に搦めとられてしまって、そこから逃げられていない可能性が非常に高い。これは、個人にとってもまったく同じことなのです。
- 「もし忙しいからというだけの理由で走るをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ」「走り終えて自分に誇り(あるいは誇りに似たもの)が持てるかどうか、それが長距離ランナーにとっての大事な基準になる。」(村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」の引用)
村上春樹の話を読んで私は本を置いた。残りは後少しで紹介するべきところもない。
山登りもランニングに似ている。頂上を登り終えて自分に誇りを持てるかどうかが基準になるのである。
敢えて言えばサラリーマン生活も似たようなものである、と私は断言する。サラリーマンの誇りとは何か?それは所属した企業への収益貢献である。「やりたかったこと」や「やるべきこと」は一文の値打ちもない。意味があるのは「やったこと」だけだ。一般に営業等フロント部門にいた人間は生涯賃金の10倍の利益をあげることが期待されていたという。生涯賃金の10倍以上の利益をもたらした人間だけが~会社における評価はどうであれ~誇りを持てるサラリーマンである。極論をいうとそれ以下のサラリーマンは会社の「碌を盗んだ」と言われても仕方がない。だがサラリーマンとしての誇りと人間としての誇りは別だ。平均寿命が伸びている現代、新しい「誇り」が必要な時代が近づいている。
だが新しい「誇り」は簡単に手に入るのだろうか?
その答は分からない。ただ私は誇りは「一生懸命走る人とともにのみある」と言いたい。一人テントの読書時間は中々良いものである。
実況放送・現状報告のたぐいの話だけでは、人は心を通わせることはできない。「それで、どうした」の問いに対する答が必要である。
その答えは、実況放送・現状報告の延長線上には存在しない。未来構文という次元の違った構文の中にある。
日本語には未来構文がないので、話はあくまでも現在構文の中にとどまる。すると、歌詠みのようなものになる。無為無策でありながら感情に訴えることになる。
空理・空論であるから、何事も起こらない。現実の世界を動かすことはできない。
教育には金がかかる。だが、無知にはもっと金がかかる。
日本人の大きな間違いは、日本にいても英米の高等教育と同等なものが受けられると思っていることである。
日本は、自国語で教育を全うできる ‘たぐいまれな国’ であると思い込んでいるようだ。
英語と日本語は別の言語であり、日本語で英語の考え方を学ぶことはできない。
そのような教育の事情を深く理解している結果かどうかは知らないが、中国の富裕層の85%は、自分たちの子供を海外で教育させたいと思っている。
アメリカの大学の留学生の22%は中国からであるという。次にインド (14%)、韓国、カナダ、台湾 (3%) と続く。日本は、五指にも入らない。
はたして、我が国は教育の満ち足り足りた国なのであろうか。このところ、国力は下降線をたどっている。
我が国は、英国、仏国、ドイツなどと同じような国であると考えられているのであろうか。
中国から米国に留学して成功して有名になった人に宋三姉妹 (three Soong sisters) がある。
特に宋美齢 (Soong May-ling) は英語に堪能で、ヘミングウェイに ’中国の女王’ (empress of China) とまで褒められた。
彼女は、有名な大学 (Wellesley College) を優秀な成績で卒業した。主専攻は英文学、副専攻は哲学であった。
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