草鹿の起源は、源頼朝が富士の裾野で巻狩を催した時、家人がしばしば鹿などの獲物を射損じたので、古老の武士にたずね、草を束ねて鹿のかたちを作り、弓の稽古をしたのが始まりだそうだ。現在は小笠原流の歩射の式として残っている。
9月8日土曜日隅田公園で「浅草流鏑馬」が午後1時から行われたが、それに先立ち午前11時から「草鹿」が行われたので見物した。
四人の射手が順番に30m程先(正確ではない)の「鹿」に向かって矢を放つ。矢の先は丸く的に刺さらず跳ね返るので「審判」が当たり・はずれの判定を行う。判定に対し射手が不服がある場合は意見を述べることができる、というのが流れだ。
主催者(台東区)から貰った「流鏑馬」のパンフレットによると「古書にも『遊射なり』としてありますから、古来競技的な意味でおこなわれたものと考えられます」とある。
射は獲物を取る手段であり、戦闘における殺戮手段であったが、礼法はそれを遊戯に、そして神様に捧げる行事にまで高めた。
孔子は「君子は争うところなし。必ずや射か。」と言った。君子は争いをしない。もし競うところがあるとすれば、それは弓矢を取って行う競技だけだ、という意味である。
草鹿の伝統を支えているのは、年配の方が多いようだが、射手の後の介添え役に妙齢の美人の方がおられた。弓っていいなぁ。