いきなり私事で恐縮だが、今週は最近では珍しく、2日続けて外飲みで痛飲した。一日目がこの前まで勤めていたリース会社の山の会だ。このリース会社は元は銀行子会社だったので、山仲間も銀行OBが多い。職場の山の会などというものは、パッとできてパッと消えるものではないか?と思っていたが、5年前の6月に雲取山に行って以来途切れることなく続いている。
銀行マンは山が好きなのか?ということを散漫に考えてみた。散漫に、というのは統計的裏付けは全くなく、ということである。そもそも銀行マンは山が好きなのか?どうかということからしてはっきりしない。登山道具屋のモンベルの会員データベースをのぞくことができたら、職業別登山人口を推計できて、どのような職業の人が登山愛好者なのかアタリがつくのだが・・・・
でもそんな術(すべ)がないので、散漫に話を進めよう。陸地測量部と日本山岳会が初登頂を競い合った剱岳(本当は千年ぐらい前に登った人がいた)。映画「点の記」で記憶している人がいるかもしれないが、この時の日本山岳会のリーダーが小島烏水という人だった。小島烏水は日本山岳会の初代会長になった人で、随筆家、浮世絵のコレクターとしても名前が残っているが、本職は銀行マンで、横浜正金銀行に定年まで勤めた。
私が生まれる前に亡くなった小島さんには余り興味がわかないが、もう少し身近に感じる銀行マン登山家は、望月達夫氏である。日本山岳会の副会長を務めた望月さんは、一橋大学山岳部OBで三井信託銀行入社。記憶によれば札幌支店長を最後に銀行を離れ、旧和光証券の副社長になられた。今はそれ程有名ではない登山家かもれない(大先輩に失礼ですが)が、深田久弥の日本百名山やその続編を読まれている人なら「時々深田久弥と一緒に山に登っていた某都市銀行のMさんが望月さんだ」というと思い出される方もいらっしゃるかもしれない。
深田久弥の日本百名山が登山ブームの一つの起爆剤になったとすれば、望月さんも登山ブームにちょっと貢献された訳だ。銀行マンとしての社会貢献よりこちらの社会貢献の方がはるかに大きい、のではないだろうか。
もっとも当時の望月さんにそのような意図はなかったろう。望月さんが札幌におられた時期は1960年台後半(だろう)で、銀行の支店長という仕事は休暇等の面で多少のワガママがきいたからお好きな山登りを堪能していたということだろうが。
ついでにもう一人銀行マンの山屋を紹介すると大学も職場も望月さんの後輩の山本健一郎さん。この人は銀行入社10年後に銀行を暫く休んで一橋大学ヒンズークシュ遠征隊の隊長を務めた。実はこの山本健一郎さんのことが、私が銀行に入る年の会社案内に出ていたので「こりゃ良い会社だ。またヒマラヤに行けるかもしれない」と思って、ヤマケンさん(山本健一郎さんのニックネーム)の後輩になったのである。
ここで私が銀行現役時代にヒマラヤか中国奥地にでも遠征して、記録を残しておくと話は上手くまとまるのだが、残念なことにその機会はなかった。いや機会がなかった、というより会社を辞めてまでヒマラヤに行くというコミットメントがなかったのかもしれない。
山本さんがヒンズークシュに遠征した時は、外貨の割り当て等を含めてまだ海外旅行が珍しかったころだ。だがその後誰でも海外に簡単に行けるようになって、海外登山を特別扱いする理由もなくなり、遠征のため長期の休みを取ることなど考え難くなった。
最後に別の観点から銀行マンと登山を考察する。簡単にいうと「銀行マンは会社を辞めると同じ仕事ができないので、何かやることを探す必要がある」ということで、その何か、の選択肢の一つに登山があるということだろう。
コラムニストの日垣隆氏は「新聞記者がフリーライターになることは比較的簡単にできますが、銀行員が会社を辞めてほぼ同じ仕事を続けるのは不可能です」とご丁寧に当たり前のことを書いている。
更に言うと銀行の仕事は「一生をかける対象」ではない、ということだろう。それは一介のサラリーマンではなく、巨大銀行のオーナーになっても同じである。金融帝国を築いたモルガン財閥の歴史を書いた「モルガン家」という本は、モルガンの絶頂期を築いたピアモント・モルガンについてこう述べている。
だが(ピアモントは)、商売を一生かける対象だと思い違いすることはなかった。彼が本当に情熱を傾け、そのとりこになった対象とは、女性と美術品と宗教だった。
美術品のとりこになるには資金が乏しい、女性のとりこになるには奥さんや家族の目が怖いと思う人は山登りという宗教のとりこになることを考えてはどうだろうか?