昨日(1月16日)大学山岳部のOB会に出かけた。場所は大学の東京クラブがある有楽町。OB会は毎年1月に新春の集まりをやっている。昨日は6人が集まった。最長老は80歳のMさん。補聴器を使わないと仲間の話が聞きとり難くなっている。年齢順で2番目はなんと私。もう一人日立から私より数か月若いNさんが久しぶりに参加。後の3人は50代だが、まもなく還暦を迎える人が一人いる。
以前はこの会では、今年はどこに行きましょう、という話がでていたと思う。しかし昨日はNさんが勤務先の会社の支援を受けて、日立でコミュニティカフェをやっているなど、日々の暮らしや老後の生活設計の話が中心で、前向きの山登りの話はほとんど出なかった。
若手(といっても50代だが)の二人は最近一般道の下山で足を骨折し、一人はリハビリ中。もう一人は治ったものの、足首の曲がり具合が元に戻らず、外傾したスタンスに立つことが難しいという。Nさんはコミュニティカフェが忙しく、山に行く暇がないとこぼしていた。
皆年を取りそれぞれの問題を抱えているのだ、と改めて実感する。私も高齢の両親の健康問題が気に懸り、今年は海外トレッキングの計画を立て難い状況だ。
いつの間にか山岳部OB会も老後に関する意見交換会の様相を呈している・・・・
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今日都心に出かける途中池内紀の「遊園地の木馬」という随筆集を読んでいたら、次のような文章に出会った。
「思い出を語るのはこころよいが、新しい何かが見つからないかぎり過去自体に意味はない。しめっぽさを友情と錯覚しないことだ。仕事仲間と、あれこれ苦労しているときがいちばんたのしい。過去にもどるのは、死の直前の一瞬でいい。」(「前へ、前へ」より)
ともすれば昔の山の話に戻り、あの時「お前はああ言った」「あの時あんたはこう判断したが、あれはこっちの方が良かった」など、昔の山の思い出話がでるのが、山岳部のOB会だ。だが昔の山の話も乏しくなっている・・・・・
実は私は山岳部OB会とは少し距離をおき、新年会以外は余り顔を出していない。今山に登っている仲間は元の会社の連中が多い。ザイルを組んで難しいバリエーションルートに挑戦するのでなければ、過去を懐かしんで昔のクラブの山仲間と一緒に山に行く必要はそれほどないだろうと考えているからだ。
もっとも私は池内 紀氏ほど「過去自体に意味はない」とは考えていない。池内氏はエッセーの中で「なるたけ前を向いていたい。よく同窓会の案内をもらうのだが、ずっと失礼している。」と書いているが、私は来週、高校の同窓会に出る予定をしている。年に一度の同窓会だ。前を向いて歩き続けることは賛成だが、昔の仲間と談笑することは悪いことではないと思う。そこでなにがしかの勇気をもらい、なにがしかの勇気を与えることができるなら、同窓会にも意義はあるはずだ。
もっとも山の話をしない山仲間の会に何ほどの意味があるかはわからないが。
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