コロナ騒動が招いた一つの問題は「雑談をする機会が減った」ということだ。
レストランや飲み屋でも席の間隔を広げ、しかもできるだけ話をしないで欲しいというムードが漂っている。雑談ほど退屈しのぎに良いものはないし、雑談の中には一つ二つ心に残るものがある場合もある。雑談は人間が生んだ偉大な知恵である。
さて徒然草第十二段は一見自分と少し合わない友との雑談の虚しさを説き、気持ちがぴったり合う友との話こそ楽しいと述べる。しかし同時に兼好法師は気持ちがぴったり合う友人などいないと述べる。ならばほどほど気持ちの合う友と雑談のひと時を持つことも人生の楽しみ方だと私は思うがいかがなものだろうか?
「同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰まむこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違わざらむと向かいたらむは、独りある心地やせむ」
「気持ちのぴったり合う相手と、心静かに語り合い、面白い話題や人の世の無常を本音で話すのは楽しいに決まっている。しかしそんな相手はいるはずがないので、相手の意向に反しないように気を遣いながら向き合っていると孤独感が募るのではないか」
同じようなサラリーマン生活を送り、同じような趣味を持っている友人同士でも必ずしも常に心が寄り添うというものではない。最終的に求めるものは人それぞれだからだ。
だがそれはそれで良いと思う。生まれ育った環境が異なり、死生観が違う以上最終的に求めるものは人それぞれに異なる。だからといってそれは楽しい語らいの妨げになるものではない。しばしの間共に人生という巡礼の旅の連れ合いとして雑談に疲れをいやすことは悪いことではない。
ということでこの段については私は少し異論を持っている。
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