金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

トレッキングとは何か?~ネパールまで1ヶ月半~

2012年09月25日 | 旅行記

今年の11月前半にネパールにトレッキングに出かける予定だ。ネパールに学校を寄贈するNPO法人の方々と学校譲渡のセレモニーに出席した後、ランタン方面をトレッキングする計画だ。出発まで結構時間があるなぁ、と思っていたが気がついてみると後6週間である。ネパール・トレッキングの経験者の方もいるので、準備不足でも「行ってしまえば何とかなる」ことは間違いないが、実りある旅をするためにできる限りの勉強はしていきたいと考えている。

本としては「地球の歩き方」とLonly planet社のTrekking in the Nepal Himalayaを読み始めている。後者は個々のトレッキング・ルートを相当詳しく説明しているので役に立ちそうだ。

ところでトレッキングという言葉は日常よく使う。先週も某ロータリークラブのトレッキング同好会の有志と一緒に山に行ったし、私はまた日本トレッキング協会の会員でもある。しかしトレッキングとは何か?ということを余り深く考えたことはなかったので、今日はまず「トレキングとは何か?」ということから少し考えよう。

Trekkingはtrekという動詞の進行形。trekは「徒歩で旅行をする」「トレッキングをする」という動詞であり、また「(難儀な)旅行」という名詞でもある。その語源はブーア人の言葉である。http://www.j-trek.jp/pg251.html

現在世界標準的なトレッキングの定義としては「起伏に富んだ山岳地方などを数日徒歩で旅行するスポーツ活動」というものだ。今日のトレッキングはネパールで1963年にジミー・ロバーツ大佐が始めたもので、トレッキングの期間は短くて2,3日、長いと1ヶ月という説明だから、我々が週末に行なっているトレッキングはちょっと別物のようだ。つまりそれはハイキングだったり、マウンティンクライミングだったりはするが伝統的な意味のトレッキングとはちょっと違う感じだ。またネパールのトレッキングでは、現地人がガイドやポーターとしてトレッカーをサポートする。そして村々のteahouseと呼ばれる旅籠屋がトレッカーを泊めて、食事を提供する。トレッキングは重要な観光産業なのだ。

ネパールのトレッキングは、Teahouseと呼ばれる現地の飯屋兼旅籠屋のようなところを泊まって回るTeahouse trekと自分でテントや食事を用意してポーターに担がせてトレッキングを続けるCamping trekがある。前者はお仕着せだが安上がりで後者はオーダーメードだがお金がかかる。ガイドブックは後者の良さを強調するが、今回私達のトレッキングはTeahouse型だ。

日本ではテントや食料を担いてくれるポーターや専用コックはいない(だろう)から、キャンピングの方が山小屋泊りより安いのでアベコベだ。

だが私はちょっと考えている。もし日本でも数日間にわたって、キャンプを続けながら気持ち良く山野を歩き回れるところとサポート部隊があれば、キャンプトレックが行われる時があるのではないかと。もっともそのようなパッケージを作ると料金も高くなる。そんな高いお金を払うならネパールに行こう、という人が多いかもしれないし、いや言葉が通じて衛生状況も問題ない日本の中でトレッキングをしたいという人もいるかもしれない。そのうち真面目に考えてみよう。

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槍ヶ岳猿談義

2012年09月24日 | うんちく・小ネタ

山で猿を見かけることが多くなっている。猿が増えているのか、餌が少なくなって人間世界に足を踏み入れる結果、猿を見る機会が増えているのか、その原因は知らないが。

先週末出かけた槍ヶ岳でも多くの猿を見かけた。最初の群れはババ平の少し上、大きな残雪が残っているところにいた。

Monkey_3

立ち止まっている登山者に聞くと「猿が邪魔して通れません」という。私が先頭になり、金属音を出す笛を吹いて猿をどかそうとしたが、猿は驚くどころか牙をむいて我々の方を睨んでいた。子猿がいたので警戒レベルを高めていたのだ。猿の群れを刺激しないように静々と歩き事なきを得たが。

槍ヶ岳と猿というと、1,2年前にNHKの地球・不思議大自然という番組で槍ヶ岳に登るニホンザルの一群を追いかけた番組を見たことがある。その猿は槍ヶ岳の北側つまり高瀬川の上流から槍の頂上を目指して餌を採りながら移動していた。

人間は遊びのために槍ヶ岳に登るけれど、猿は生きるために槍ヶ岳に登るのである。猿の威嚇の方が迫力があるのは当然かもしれない。人間は作物を荒らす動物を害獣と呼ぶが、猿からすると自分たちの領域に侵入してくる人間は害人と呼びたいかもしれない。

二度目に大きな群れを見たのは、横尾から徳沢に下山する時だ。雨の中を沢山の猿が登山道を横尾に向けて移動していた。そこは梓川の河原が大きく広がったところで、河原を歩く猿も多くいたが、一部の猿は人間との接触を恐れず登山道を歩いてくるのである。

初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉

という句があるが、梓川の猿は丸々と太っていて少々の雨など物ともせず堂々と歩いていた。今日の朝刊に餌がなくてガリガリに痩せた北海道のヒグマの写真が出ていたが、梓川の猿は食物事情は良さそうに見えた。

芭蕉の猿の句というと、

猿を聞く人捨て子に秋の風いかに という句がある。

古来漢語では猿の声は断腸の思いをさせるものとしてきた。句の意味は「猿の声にすら断腸の思いを抱く詩人たちよ。あなたがたは秋風の中で命が絶えそうになっている捨て子の声を何と聞くか」というところだ。

猿の鳴き声は今回も一二度聞いたが、中国の詩人でない私に断腸の思いはわかない。子猿を背中に乗せて悠々と歩く猿を見ると、捨て子などいない猿の方が人間より幸せなのか?という気がしてきた。

槍ヶ岳の猿は色々なことを考えさせる猿だった。

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槍ヶ岳の秋は稜線から

2012年09月24日 | 

お彼岸の時期に槍ヶ岳に登ってきた。メンバーは某ロータリークラブ・トレッキング同好会の中の精鋭メンバー二人だ。昨年10月に常念岳に登った人たちの一部で、そこから眺めた槍ヶ岳の凛々しさに魅せられて挑戦となった次第。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、霧の中の槍ヶ岳は涼しさを通り越してやや寒い位だった。

9月21日金曜日・晴時々曇り。新宿7時ジャスト発のあずさ1号で松本へ(私はいつものとおり立川から乗車)。予約しておいた馴染みのYタクシーに乗り上高地へ。バスターミナルで昼食を済ませ、11時30分槍沢ロッジに向けて出発。歩き始めた頃から雲は上がっていき、明神岳がくっきり見えてきた。

Myoujin

徳沢、横尾と順調に進み、午後3時頃槍ヶ岳の穂先が見える槍見河原に着いたが、槍は雲の中だった。午後3時半槍沢ロッジ到着。3人の足並みがそろっていたので上高地から4時間で到着(コースタイムは5時間程度)。槍沢ロッジには風呂があり汗を流してさっぱりした。

9月22日土曜日・晴れ時々曇り。午前6時4分槍沢ロッジ出発。6時29分ババ平到着。槍沢の奥までくっきり見えた。快適な一日になりそうだ。

Babadaira

ババ平から数分登ると残雪が出てきて、その横で男女数名の先行パーティが立ち止まっていた。猿がいて道をふさいでいるという。猿待ちをしている訳にもいかないので、私がトップに出て笛を吹きながら進んでいった。ところが笛程度では猿は驚かず、時々牙をむいて威嚇する。子猿を連れているので気がたっていたようだ。(猿談義は別のブログで)

Monkey

7時42分天狗原分岐到着。

Tengu_2

8時40分ヒュッテ大槍分岐付近。槍の穂先はくっきり見えるが薄雲が広がってきた。

Ooyaribunnki

10時9分槍ヶ岳山荘到着。4時間で高度差1,300mを登ってきた。さあ、槍の穂先に向かおうと思うとガスが広がり、気温が下がってきた。登り始めると少しガスが晴れて、小槍の先に硫黄尾根が見えた。

Koyari

10時45分頂上到着。15分程天候回復を待つが期待していた360度の眺望は得られず。指先が冷たくなる程の気温だった。槍ヶ岳山荘でカレーなどの昼食を食べ12時に槍沢ロッジに向けて下山開始。当初計画では、疲労度が激しい場合は槍ヶ岳山荘泊まりとし、元気な場合は槍沢ロッジに下る、としていたが、全員元気なので槍沢ロッジまで下ることにした。これは大正解だった。というのは翌日は夜中から雨。槍ヶ岳頂上付近では白いものが混じっていたという。山では目標を達成した後はできるだけ下っておくというのが安全上の鉄則なのだ。

下り始めるとまた天気が良くなり、槍の穂先が秋空に突き刺さっていた。

Yari2

槍沢の上部の草は茶色くなり秋の到来を告げていた。

Kusamomiji

ナナカマドの葉も色付いてきた。

Nanakamado

遅くまで咲き残ったアザミの中を下っていく。槍の秋は近い。

Azami

午後3時槍沢ロッジ到着。足並みの揃ったメンバーによる9時間登山は快適だった。1,300mを一日で往復してもさほど疲労感を感じなかったのは、さわやかな天気と槍沢の登り易い登山道のお陰だ。今年の夏は何回か9時間、10時間登山をやったが槍ヶ岳往復が一番楽だと思った。

9月23日朝4時頃ふと目が覚めるとトタン屋根を叩く雨の音がした。6時37分雨具に身を固めて上高地を目指して出発。徳沢でYタクシーに電話(徳沢ではドコモ携帯繋がらず。公衆電話利用)。10時30分上高地。竜神の湯で冷えた体を温めて松本に向かった。

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原発中止はいつ円高につながるか?

2012年09月21日 | 金融
今松本に向かうあずさの中。スマートフォンでブログを書いているが列車が揺れて大変。揺れると言えば、日米欧中央銀行の緩和策を巡って円も動く。だが構造的には円安に向かうのではないか?
理由は原発中止による貿易赤字の持続的拡大。マーケットがいつ焦点を当てるか分からないが。ホルムズ海峡が封鎖されるとインパクトがあるのだが。
旅先の寝言でした。

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銀行マンと山登り

2012年09月20日 | 

いきなり私事で恐縮だが、今週は最近では珍しく、2日続けて外飲みで痛飲した。一日目がこの前まで勤めていたリース会社の山の会だ。このリース会社は元は銀行子会社だったので、山仲間も銀行OBが多い。職場の山の会などというものは、パッとできてパッと消えるものではないか?と思っていたが、5年前の6月に雲取山に行って以来途切れることなく続いている。

銀行マンは山が好きなのか?ということを散漫に考えてみた。散漫に、というのは統計的裏付けは全くなく、ということである。そもそも銀行マンは山が好きなのか?どうかということからしてはっきりしない。登山道具屋のモンベルの会員データベースをのぞくことができたら、職業別登山人口を推計できて、どのような職業の人が登山愛好者なのかアタリがつくのだが・・・・

でもそんな術(すべ)がないので、散漫に話を進めよう。陸地測量部と日本山岳会が初登頂を競い合った剱岳(本当は千年ぐらい前に登った人がいた)。映画「点の記」で記憶している人がいるかもしれないが、この時の日本山岳会のリーダーが小島烏水という人だった。小島烏水は日本山岳会の初代会長になった人で、随筆家、浮世絵のコレクターとしても名前が残っているが、本職は銀行マンで、横浜正金銀行に定年まで勤めた。

私が生まれる前に亡くなった小島さんには余り興味がわかないが、もう少し身近に感じる銀行マン登山家は、望月達夫氏である。日本山岳会の副会長を務めた望月さんは、一橋大学山岳部OBで三井信託銀行入社。記憶によれば札幌支店長を最後に銀行を離れ、旧和光証券の副社長になられた。今はそれ程有名ではない登山家かもれない(大先輩に失礼ですが)が、深田久弥の日本百名山やその続編を読まれている人なら「時々深田久弥と一緒に山に登っていた某都市銀行のMさんが望月さんだ」というと思い出される方もいらっしゃるかもしれない。

深田久弥の日本百名山が登山ブームの一つの起爆剤になったとすれば、望月さんも登山ブームにちょっと貢献された訳だ。銀行マンとしての社会貢献よりこちらの社会貢献の方がはるかに大きい、のではないだろうか。

もっとも当時の望月さんにそのような意図はなかったろう。望月さんが札幌におられた時期は1960年台後半(だろう)で、銀行の支店長という仕事は休暇等の面で多少のワガママがきいたからお好きな山登りを堪能していたということだろうが。

ついでにもう一人銀行マンの山屋を紹介すると大学も職場も望月さんの後輩の山本健一郎さん。この人は銀行入社10年後に銀行を暫く休んで一橋大学ヒンズークシュ遠征隊の隊長を務めた。実はこの山本健一郎さんのことが、私が銀行に入る年の会社案内に出ていたので「こりゃ良い会社だ。またヒマラヤに行けるかもしれない」と思って、ヤマケンさん(山本健一郎さんのニックネーム)の後輩になったのである。

ここで私が銀行現役時代にヒマラヤか中国奥地にでも遠征して、記録を残しておくと話は上手くまとまるのだが、残念なことにその機会はなかった。いや機会がなかった、というより会社を辞めてまでヒマラヤに行くというコミットメントがなかったのかもしれない。

山本さんがヒンズークシュに遠征した時は、外貨の割り当て等を含めてまだ海外旅行が珍しかったころだ。だがその後誰でも海外に簡単に行けるようになって、海外登山を特別扱いする理由もなくなり、遠征のため長期の休みを取ることなど考え難くなった。

最後に別の観点から銀行マンと登山を考察する。簡単にいうと「銀行マンは会社を辞めると同じ仕事ができないので、何かやることを探す必要がある」ということで、その何か、の選択肢の一つに登山があるということだろう。

コラムニストの日垣隆氏は「新聞記者がフリーライターになることは比較的簡単にできますが、銀行員が会社を辞めてほぼ同じ仕事を続けるのは不可能です」とご丁寧に当たり前のことを書いている。

更に言うと銀行の仕事は「一生をかける対象」ではない、ということだろう。それは一介のサラリーマンではなく、巨大銀行のオーナーになっても同じである。金融帝国を築いたモルガン財閥の歴史を書いた「モルガン家」という本は、モルガンの絶頂期を築いたピアモント・モルガンについてこう述べている。

だが(ピアモントは)、商売を一生かける対象だと思い違いすることはなかった。彼が本当に情熱を傾け、そのとりこになった対象とは、女性と美術品と宗教だった。

美術品のとりこになるには資金が乏しい、女性のとりこになるには奥さんや家族の目が怖いと思う人は山登りという宗教のとりこになることを考えてはどうだろうか?

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