先日図書館で借りた外山滋比古氏の「知的な老いの力」という本の中の「美しく生きる努力」の章に瓢水の俳句が引用されていた。
浜までは海女も蓑着る時雨かな 瓢水
瓢水は江戸中期の俳人。外山氏によると生涯、無欲、無私の人だった。ある時瓢水の評判をきいた旅の僧が瓢水を訪ねてきた。ところが瓢水は留守。僧が家人にどこに行ったのか尋ねると「風邪をこじらせて薬を買いに行った」とのこと。それを聞いて旅の僧は「さすがの瓢水も、命が惜しくなられたか」という言葉を残して立ち去った。帰ってきてその話を聞いて瓢水が作ったのがこの句だった。
外山氏によると「いよいよ、となるまでは、わが身をいたわりたい、病気はなおしたい」という含意だそうだ。
この話を読んで私は病気が悪化した時(1253年)の道元禅師の言葉を思い出した。
「今生の寿命は、この病気できっと最期だと思う。だいたい人の寿命には必ず限りがある。しかし、限りがあるからといっても病気のままに、なにもせずに放っておくべきではない。・・・あれこれ医療を加えてもらったが、平癒しない。これも寿命であるから驚いてはいけない」(角田泰隆「座禅ひとすじ」より)
生死を超越していたと思われる道元禅師もまた生きるために色々と治療に励まれたのである。
生死即涅槃。命を粗末にしないが、命に必要以上に執着せずと道元禅師は述べている。