惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

編集者から見た星新一

2011-09-16 21:40:30 | SF
 昨日の日記に続いて、今日も本の抜書きをしてみます。

 草森紳一さんの『記憶のちぎれ雲 我が半自伝』(本の雑誌社)は、まだ読み始めたばかりですが、第一章「真鍋博」の中で、デビューして数年後の星新一さんのことが語られています――

 私が編集者になったころ、SF作家星新一の「ショート・ショート」が大当りしており、その挿し絵は、いつも真鍋博であった。星新一の作品は惜しみなくアイデアが奔出し、風刺のエスプリに満ち溢れ、一編として駄作がないというのが評判であった。その上倒産した星製薬の御曹子が、SF作家になったとして、話題の付加価値がつき、ジャーナリズムは彼のもとへと殺到していた。(中略)誌面は見開き二頁のスペースを提供するだけで、ぜいたくで、しゃれたコーナーを獲得できた。原稿料も安くすむ。
 草森さんが婦人画報社に入社し〈メンズクラブ〉の編集者になったのは1961年。
 星さんはそれより3年半ほど前の1957年、〈宝石〉11月号に「セキストラ」が転載されてデビューしています。61年1月には直木賞候補になり、2月に最初のショートショート作品集『人造美人』が出版されたところでした。

 草森さんは「黒づくめの学生服についてなにか書いてほしい」と、人気沸騰中の星さんに電話依頼したのでした。原稿用紙3枚のエッセイ。
 星さんは「短い原稿を出版社は、きちんと評価しないので、いやだ」と、いったんは断ったそうです。が、1時間ほど後、草森さんのところに星さんから電話があり、「引き受ける」と言ってくれたとのこと。
 その原稿をもらいに出かけると、星さんは再度、ショートショートがいかに割に合わない仕事であるかを草森さんに力説したというのです。
 「編集者としては、なんとも切ない一刻である」と草森さんは記しています。

 初めての編集者には大概、誰でも、星さんは同じようなことを言っていたのかもしれません。他の人からも、似た話を聞いた覚えがあります。
 確か、後に星さんは編集部と交渉して、1枚いくらではなく1編いくらで支払ってもらうようにしたのではなかったかしらん。まあ、1枚あたりの原稿料も、その後の星さんならかなり高くなっていたでしょうけどね。

 ちなみに、草森さんのこのエッセイの大事な部分は、最相葉月さんの『星新一 1001話をつくった人』にはきちんと引用されています。雑誌連載のものに目を通していたのでしょうねえ。さすが最相さん。