折に触れ、亡くなった小松左京さんのことを考えています。
今日は『ユートピアの終焉』(DHC、1994年)を読み返していて、小松さんの反骨精神について思いを巡らせました。
今日は『ユートピアの終焉』(DHC、1994年)を読み返していて、小松さんの反骨精神について思いを巡らせました。
この本に、次のようなくだりがあります――
- 中学一年の時、校長は修身の時間に、「軟文学」を非難した。具体的に言ったかどうか記憶があやしいが、その講話をきいて、私は古本屋で吉屋信子の『夫の貞操』や菊池寛の『真珠夫人』を捜し求め、読みふけった。
教師の権威に反発し、お道化たマネを繰り返していた小松さんのあだ名は「浮かれ」。トリックスターの役割を果たしていたのでしょうね。
人はなぜ浮かれるのか。
『やぶれかぶれ青春記』を読めば、そのためにずいぶんとひどい目に遭い、自殺さえ考えたといいます。しかし、そうすることをやめなかった。やめられなかった。
大学に行く際も、工場を経営する父親が勧める理工系を選ばず、あえて文学部へ入った。これも一種の反発心なのでしょうか。
あるところで小松さんは「科学技術は軍国日本の奨励する分野だった。自分はそれに反発した」というような意味のことを述べています。で、あえて軟弱な文学を選択した、と。
こういう心の動き、行為への志向は、何か大事なものに繋がっているように思います。差し出された方向でなく、独自の方向を目指し、それを貫徹する。
そうやって行き着いたのが「宇宙は文学するか?」というとんでもない問いだったのではないか――というのが、今のところの考えの手がかりなのですが、さて、これからどうなるか。