最高気温 28.4℃(隣町アメダス)。市民プールへは行かず、駅前あたりまで散歩しました。
このところ気にしている音楽とメディアの問題ですが、今日は、レコードがどう聞かれたのか、ちょっと考えてみます。
レコードを聞くには、プレーヤー(蓄音機)が必要です。しかし、レコードが発明され、発売された当初、庶民が簡単に手に入れることができるものだったとは思えません。
「銭形平次捕物帳」を書いた作家・野村胡堂が「あらえびす」の名でレコード評を書いたことはよく知られていますが、そのあらえびすさんがエッセイで、蝋管レコードを聞かせる店があったことを書いています。
日露戦争前といいますから、明治30年代なかば、1900年前後の話でしょうか。浅草にあったその店は、お客から金をとって、蝋管に録音した浪花節や音曲を聞かせていたといいます。一度に5人ぐらいが同時に、蓄音機から伸びたゴム管を耳に当てて聞いていた、と書いてあります。
一種の見世物でしょうか(聞かせ物?)。商売になるくらいに、人々の好奇心を掻きたてるものではあったのです。
こうした商売を自動化したのがジュークボックスということになります。
ジュークボックスの歴史は、レコードそのものと同じくらいに古く、1889年にはサンフランシスコのサロンに、硬貨を投入することで、エジソンのフォノグラフを聞ける機械が据え付けられました。
その後、ジュークボックスは円盤レコードに対応し、オートチェンジ機能を備えるなど改良が施され、アメリカ各地の酒場や盛り場の一画に設置されてゆきます。それが良い稼ぎになったということは、つまり、家庭でレコードを聞くことのできる人は、一部にとどまっていたということなのでしょう。
長い間、レコードの多くはジュークボックス用に販売され、1940年代なかば、レコード売り上げの4分の3はジュークボックス向けだったという記事もあります。
個人的な思い出でいえば、私が初めてレコードを聞いたのは、隣の森下雨村さんところだったかもしれません。東京を引き払って高知に帰った時、持ち帰ったのでしょうか。
あとは、小学校ですね。音楽の時間や校内放送で聞いたように思います。
小学校6年生の頃、同級生の堀見くんの家で、ポータブルレコーダーでベンチャーズやピーター・ポール&マリーを聞かせてもらったのは、1963年でしたでしょうか。堀見くんの家は電器屋さんだったので、そうしたものを手に入れるのが早かったのでしょう。1960年代には、若者が自分のレコードプレーヤーを持ち、買ったレコードを聞くことができるようになりました。
ここまで来て、ようやく、私の思いつきを書き留める準備が出来ました。それは、また明日にでも。