惑星ダルの日常(goo版)

(森下一仁の近況です。タイトルをはじめ、ほとんどの写真は交差法で立体視できます)

水とも

2017-08-23 21:17:16 | 日記

 最高気温 33.7℃(隣町アメダス)。たまらない暑さです。

 夕方は市民プール。

 昨日、プールから帰る途中、数年前まで一緒に泳いでいたKさん(たぶん80代なかばの女性)と、偶然、会いました。このところ、プールに来ないので気になっていたのです。

 Kさんは、「もう泳ぐことはできないけど、じゅうぶん元気」とのこと。
 今日、それを常連さんたちに伝えたら、皆さん、すごく喜んでいました。プール友だち(水とも?)は、いいもんだと思いました。

 平泳ぎはキックがちっともうまくなりません。蹴った後、もうひと伸び欲しいと思うんだけど、それができない。自分の足の裏がどちらを向いているのか、正確にとらえる方法はないものでしょうか。

 背泳ぎはストローク数を数えながら泳いでいます。なんと、50メートルで70回!
 我ながら大変多いと思います。クロールは44回だから、1.5倍以上。表と裏と、ひっくり返して泳ぐだけで、なんでこんなに違うのでしょうか。

 家に戻って、ビデオで水泳教室を見てみたら、肩の柔軟性、手の入水、水の掻き、キック、すべてダメだということがわかりました。明日から、ひとつずつ、意識して改善しよう。そうすればストローク数も減ってくるはず。そうなれば、タイムも伸びるでしょう。

 今日はレコードの話はお休みです。まだネタはあるんですけど(*_*;


作品としてのレコード

2017-08-22 21:35:17 | 音楽

 しつこく、今日も音楽とメディアの話を。

 レコードは、最初、音声を記録するものとして作られました。音楽に関していえば、演奏を吹き込むもの。
 しかし、蓄音機とレコードが普及し、産業として成立すると、レコードは単に既存の演奏を録音するだけでなく、商品とするため、レコード化を前提にして、新たな楽曲が創られるようになります。ポピュラー音楽の創造と流通の主流をレコードが占めるようになってゆくのです。

 それにともない、作曲し、編曲し、それを演奏したものをレコード化するだけでなく、録音の段階でさらに手を加え、レコードでなくては不可能な音づくりがなされるようになりました。
 その際の技法には、早回しや遅回し、逆回しなどがありますが、いちばんポピュラーなのは多重録音でしょう。

 多重録音によるヒット曲の始まりは、パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」といっていいようです。1950年のヒット曲。
 余談になりますが、リンク先のYoutubeの画像、ラベルの左側に「BMI」という文字があります。
 BMIは米国の音楽著作権管理団体のひとつ。1930年代末、それまで米国における唯一の音楽著作権団体だったASCAPが、新興メディアであるラジオでの楽曲使用料金の値上げを決めると、ラジオ業界はこれに反発、自分たちでBMIを立ち上げます。
 ブロードウェイを始めとする既存の音楽業界を束ねていたASCAPに対し、BMIはカントリーやフォーク、ブルースなど、それまであまり注目されていなかったジャンルの音楽にも手を伸ばし、そうした曲がラジオで流れるきっかけともなりました。
 「テネシー・ワルツ」がカントリーの曲なのも、そうした背景があってのことなのですが、先日のNHK・FMの朝妻一郎さんのお話によれば、この曲はBMI初の全米トップチャートに輝いたもので、BMIが勢力を拡大する契機となったようです。

 パティ・ペイジの歌声は3声が重ねられています。これはレコードの原盤に吹き込んだ声を再生しながら、次の声を重ねるという、原盤ダイレクトカッティングの手法で録られたということです。わかりやすい、原始的な方法ですね。

 多重録音によるレコード制作といえば、レス・ポールが有名です。彼も、この「テネシー・ワルツ」と同時期に、同じダイレクトカッティングによる多重録音に挑んでいます。"Lover"は1948年に吹き込まれた曲。すべて彼ひとりによるギター演奏です。特に後半の多彩な音の動きは驚異的。

 レス・ポールは、この後、性能のよいテープレコーダー(Ampex 製)を入手し、さらに多重録音にのめりこんでゆきます。
 その成果が、メアリー・フォードのヴォーカルをフィーチャーした"How High The Moon"。1951年にビルボード誌で9週間連続1位を続ける大ヒットとなりました。とても心地よい音づくり。
 ついでに書いてしまいますが、この曲の演奏ではナット・キング・コール、ジューン・クリスティ、メル・トーメのセッションがYouTubeにあって、これも大好き。

 話はそれましたが、このようにして、レコードは独自の音楽作品としての地位を占めるようになります。


標的はティーンズ

2017-08-21 21:12:49 | 音楽

 ロックンロールは1950年代のアメリカで、黒人音楽と白人音楽とが融合して誕生した若者向けの音楽です。
 従来、黒人はリズム・アンド・ブルースやゴスペルなどの黒人音楽を、白人はカントリーやスウィングジャズ系の白人音楽を、もっぱら聞いていたのが、第二次大戦で若い兵士たちが互いの音楽を耳にするようになり、戦後、ジュークボックスやラジオ放送で、どちらにも親しむ風潮が広がったといいます。そんな中から、黒人のリズムに白人のメロディーラインをのせた、ロックンロールが生まれたのです。

 ずっと不思議に思っていたのは、ロックンロール全盛期の50年代後半、チャック・ベリーの "Sweet Little Sixteen"やサム・クックの"Only sixteen"、ジェリー・リー・ルイスの"High School Confidential"といったように、ティーンエイジャーを題材にしたヒット曲がやたらに多いことでした。
 しかし、昨日の日記に書いたように、こういった曲は、まずジュークボックスで繰り返しかけられていたのですね。街角で少年少女が小遣いをつぎこんで、自分の好きな曲を聞く。そうしたターゲットを狙った楽曲だったと考えれば、大いに納得がいきます。

 最初、レコード業界は、ロックンロールなんかきわものと踏んでいたようです。しかし、先日のNHK・FM「ポピュラーミュージックヒストリー」での朝妻一郎さんのお話によれば、まだ20歳そこそこだった音楽プロデューサー、ドン・カーシュナーはこの分野の将来性を見込み、大先輩のアル・ネヴィンズ(「誇り高き男」などのヒットで知られるザ・スリー・サンズというグループでギターを弾いていました)に話を持ち掛け、音楽出版社を設立します。「アルドン・ミュージック」というのが会社名。2人の名をとっているので、わかりやすいですね。
 この会社が売り出したソングライターには、ニール・セダカ、キャロル・キング、ニール・ダイヤモンド、フィル・スペクターらがいます。駆け出しのポール・サイモンもここに所属していました。

 こうして、私のこよなく愛するアメリカン・ポップスが完成するわけです。

 しかしこの潮流は、間もなく、イギリスからの波にのまれてしまいます。いうまでもなく、ビートルズです。そして、その背景には、ポータブルレコードプレイヤーとトランジスタラジオの登場があったのではないでしょうか。
 このように、楽曲の移り変わりと音楽メディアの間には深い結びつきがあった――というのが、私の思いつきです。たぶん、多くの方が指摘していると思いますけれど。


レコードの聞き方

2017-08-20 21:00:57 | 音楽

 最高気温 28.4℃(隣町アメダス)。市民プールへは行かず、駅前あたりまで散歩しました。

 このところ気にしている音楽とメディアの問題ですが、今日は、レコードがどう聞かれたのか、ちょっと考えてみます。

 レコードを聞くには、プレーヤー(蓄音機)が必要です。しかし、レコードが発明され、発売された当初、庶民が簡単に手に入れることができるものだったとは思えません。

 「銭形平次捕物帳」を書いた作家・野村胡堂が「あらえびす」の名でレコード評を書いたことはよく知られていますが、そのあらえびすさんがエッセイで、蝋管レコードを聞かせる店があったことを書いています。

 日露戦争前といいますから、明治30年代なかば、1900年前後の話でしょうか。浅草にあったその店は、お客から金をとって、蝋管に録音した浪花節や音曲を聞かせていたといいます。一度に5人ぐらいが同時に、蓄音機から伸びたゴム管を耳に当てて聞いていた、と書いてあります。
 一種の見世物でしょうか(聞かせ物?)。商売になるくらいに、人々の好奇心を掻きたてるものではあったのです。

 こうした商売を自動化したのがジュークボックスということになります。
 ジュークボックスの歴史は、レコードそのものと同じくらいに古く、1889年にはサンフランシスコのサロンに、硬貨を投入することで、エジソンのフォノグラフを聞ける機械が据え付けられました。
 その後、ジュークボックスは円盤レコードに対応し、オートチェンジ機能を備えるなど改良が施され、アメリカ各地の酒場や盛り場の一画に設置されてゆきます。それが良い稼ぎになったということは、つまり、家庭でレコードを聞くことのできる人は、一部にとどまっていたということなのでしょう。
 長い間、レコードの多くはジュークボックス用に販売され、1940年代なかば、レコード売り上げの4分の3はジュークボックス向けだったという記事もあります。

 個人的な思い出でいえば、私が初めてレコードを聞いたのは、隣の森下雨村さんところだったかもしれません。東京を引き払って高知に帰った時、持ち帰ったのでしょうか。
 あとは、小学校ですね。音楽の時間や校内放送で聞いたように思います。

 小学校6年生の頃、同級生の堀見くんの家で、ポータブルレコーダーでベンチャーズやピーター・ポール&マリーを聞かせてもらったのは、1963年でしたでしょうか。堀見くんの家は電器屋さんだったので、そうしたものを手に入れるのが早かったのでしょう。1960年代には、若者が自分のレコードプレーヤーを持ち、買ったレコードを聞くことができるようになりました。

 ここまで来て、ようやく、私の思いつきを書き留める準備が出来ました。それは、また明日にでも。


プールで雷雨

2017-08-19 20:54:51 | 日記

 最高気温 31.3℃(隣町アメダス)。

 夕方、ひさびさ(9日ぶり)に市民プールへ出かけました。
 着替えて、シャワーを浴び、屋外のプールサイドへ行くと、北の、小平市や武蔵野市方面に真っ黒な雲が広がっていました。

 準備体操をして水に入り、300メートル泳いだところで、水から上がるようにとのアナウンス。「一時使用中止としますので、全員、更衣室にもどってください」とのこと。
 黒い雲がぐんぐんこちらへ近づいてきていました。外にいると落雷の危険があるので、建物の中に避難することになったのです。
 間もなく、雷鳴と激しい雨。しばらく水着のまま、プール再開を待っていたのですが、望み薄と判断して着替えました。

 着替えても、雨はますます激しくなり、強風とともにあちらこちらから建物を叩きます。嘘みたいな降りよう。こんなに激しい雨はひさしぶりです。
 着替えて30分あまり待ったでしょうか。小降りになったところで、レインポンチョを着て、自転車で帰途に。少ししか泳げなかったので、入場料は払い戻してくれるとのこと。入場券を返却せず、そのまま持って帰りました。