金融リテラシィあるいはファイナンシャル・リテラシィとは目新しい言葉だろう。しかし私はまもなくこの言葉が日本のマスコミで話題になって来る~中身は別として~と確信している。金融リテラシィとは言うまでもなくFinancial Literacyのこと。この言葉は英語ではかなり使われている。Literacyとは「読解能力」とか「教養」のこと。情報リテラシィといった形である程度日本語化した英語と言えなくもない。しかし理解力という程度の日本語に訳せば良いのだが、やたらと英語を使いたがる人が多いのでこんなことになっているのだろう。従って金融リテラシィという言葉は金融理解力という程度のことなのだが、将来を見越して金融リテラシィと言っておく。
金融リテラシィについては昨年12月にOECDが「世界経済における金融リテラシィの重要性」という簡単なメモを発表している。更にOECDは今年に入ってより詳細なレポートを発表している(日本のOECD 事務所で4,100円で入手できる様だが私は読んでいない)。なおこのレポートを踏まえてエコノミスト誌が1月12日に「投資家の危険負担」Financial Literacy Caveat investorという記事を書いている。これを踏まえて簡単なレポートを書いてみよう。なお手前味噌な話ながら私のブログは以前から読者に金融リテラシィの助けになる情報を提供することを一つの目的としている。
何故金融リテラシィは必要なのか?
金融商品・サービスの複雑化
米国連銀のグリーンスパン議長は最近金融教育の必要性について次のように述べている。
- 今日の金融世界は一世代前に較べて極めて複雑になっている。40年前は以下には地元銀行と貯蓄金融機関における当座預金と貯蓄預金を如何に管理するかを理解することで十分だった。現在消費者は広いレンジの金融商品と金融サービスおよびその提供者の区別をすることが出来なければならない。
個人と国家の安全性
OECDペーパーはこう述べる。
- 興味・関心と十分な報酬を支払う仕事は社会の結合力の中心となる柱であるが貯蓄と個人に金融面の安全性~特に退職後の~を提供する資本の蓄積もまた重要な柱である。
- 国家の中で富の不均衡が起こると結束力が揺るがされる危険性がある。従って良い雇用見通しとともに金融教育が個人と家族が資産形成を助成する上でキーとなる役割を担う可能性がある。
エコノミスト誌は最近IBMが年金制度の変更を決めたことなどを引用しながら次のように述べる。
- IBMのような健全な会社でさえ確定給付年金から確定拠出年金に切り替えるようにアメリカと英国では企業の確定給付年金の閉鎖が加速している。これは個人の選択と責任を創造し助長するが、これは恐れるよりは歓迎するべきものである。また他の多くの国では国の年金が巨大な年金債務を抱えていて、国民がより退職後の備えを自分で行なう必要に迫られると考えられる。
- ここで起きる重要な疑問は「この新しい責任を引き受ける個人はどの程度の基礎的な金融概念に関する知識を持っているか?」ということだ。
個人の金融知識のレベルはどうなのか?
二つの記事から国別の幾つかの例を紹介しよう。
- まず日本であるが、OECDメモによれば回答者の71%は株式と債券の知識が欠如し、57%が全般的に金融商品の知識が欠如し、29%が保険と年金の知識が欠如している。
- オーストラリアでは投資商品を保有している人の37%が投資商品が価格変動することを理解していなかった。また同じ調査で回答者の67%が複利の概念について理解していると答えたが、複利概念を使った問題解決を求めると28%しか満足のいくレベルの回答はできなかった。
- アメリカでは31%の人がクレジットカードの計算書の中の金融手数料がカードを使うために払うものだということを知らなかった。
金融リテラシィの効果
エコノミスト誌は金融リテラシィが欠如していると人々は老後のために僅かしか貯蓄をしないので、国家いやでも応でもその面倒を見なければならなくなるという。「政府はこの事態を極めて深刻に受け止めている」とOECDのバーバラ・スミスは言う。今週英国政府は過大借入を行なっている消費者向けにオンラインの負債計算機と10代向けのマネー管理コースを発表した。
金融リテラシィの潜在的な経済メリットは政府の支出を上回る。より情報を持った消費者~単なる投資家ではなく~は、市場の効率性を増加させ平気で悪事を働くような悪い金融商品の売り手をはびこらせない助けとなる。
では投資家教育は有効に機能しているのか?
- アメリカでは過去から一般的には民間部門に依存しながら金融教育プログラムが実施されてきた。大部分の大企業と多くのより小さい企業は社外専門家による投資セミナーを従業員のために実施してきた。セミナー出席した多くの人は退職後に備えて貯蓄を増加させている。
- しかし教育と助言の間には微妙な線がある。教育とセールスは厳格に分けられるつもりであるがそれらはセミナーにおいて金融商品をセールスする企業により提供される。あるロビーグループがいうには幾つかの雇用者は従業員から訴訟されることを恐れて金融セミナーのスポンサーになることを躊躇している。
- 更に専門家は金融教育に過度に信頼を置くことを警告する。前述のスミス女史は「金融教育は人々が考えるような万能の解いかなる決策ではない」と言う。いかなるキャンペーンも総ての人に届くわけではない。加えて金融知識を持つ人はより多く貯蓄し長期的な投資において高いリターンを上げる傾向があるが、教育効果の程は明らかではない。
- 欧州でコンサルティング会社のフォレスター・リサーチ社が今週発表したレポートでは、ヨーロッパ人にたった3分の1だけが金融機関は彼等を適切に取り扱うと信じており、半分以下の人しか彼等がメインバンクから受けるアドバイスを信頼していない。また20%の人しか広告宣伝物にある情報が彼等の金融面の意思決定を改善するに役立つと考えていない。
- しかし「人々は馬鹿過ぎて自分の金を管理することができないという不平は全く間違っている」と米国企業協会のグラスマン氏は言う。その良い根拠は人々は彼等が欲しまたしなければならない時学ぶということを信じることである。1990年代に数百万人の人が株式投資を始めその後多くの人が株式に過度に熱中することのリスクについて手痛い授業を学んだ。
- 数十年後に迫る退職に備えて今貯蓄すべしという強いメッセージが必要な様だ。「今貯蓄をしなければ貧乏になる。退職後の貧困は地獄だ」という様な。
コメント
以上が金融リテラシィに関するマクロ的な概要だ。やがて日本でも識者・金融機関・ファイナンシャル・アドバイザー等という人々が金融リテラシィということを言い出しそれがまた善良な市民を迷わさなければ良いが・・・と若干の危惧をする。金融リテラシィについて私が基本的なこととして言っておきたいことは次のとおりだ。
- リスクなく儲かるという様な上手い話はない。まず上手い話には棘があると考えること。
- 人には儲けた記憶は長続きし、損した記憶は直ぐ消える傾向がある。個別株投資で儲けまくるという様な話は余り信じない方が良い。「儲かった、儲かった」という様な人は意外に損したことを忘れて(あるいは忘れようとして)いるのかもしれない。
- 運用するにしろ借りるにしろ手数料というのは曲者だ。株の売買手数料・投資信託の委託手数料などで金融機関は飯を食っている。あなたが利用しようとしている金融サービスや購入する金融商品のリターンが払う手数料を正当化するものかどうか良く吟味する必要がある。
- 元本確保という言葉に惑わされるな。お金に色はない。元(元本)も子(利息)も区別はないのである。金融商品の中には元本確保をするために金融機関に多くの手数料を払う商品がある。金融商品は元利を含むトータルリターンとそのリターンが達成される蓋然性で評価されなければならない。
- マーケットのタイミングで利益を取る(株や為替の値動きで鞘を取る)ことは、市場の効率性が高まるにつれプロでも困難になっていると知るべきである。
- 長期的な投資による期待収益は経済成長+αと考えるべきである。とすれば先進国では今後5-7%程度と考えるべきだはないか?5%である資産を20年間運用すると資産は2.6倍に7%で運用すると3.9倍(いすれも複利・税金抜き計算)になる。これがまあ投資の一つの目安だろう。この投資果実を大きいと見るか小さいと見るか意見の分かれるところだがいずれにせよそんなに儲かる話ではないのだ。
- 偉そうなことを言うようだが金融リテラシィの最後の結論は投資というものはそれ程儲かるものではないので「収入に合わせてバランスのとれた暮らしをする習慣を付ける」という当たり前すぎる程当たり前の答が返ってくるのである。その事を忘れると一攫千金を見て騙される等思わぬ落とし穴にはまってしまうのである。
- なんて当たり前のことを言っていたのでは人様から手数料や授業代を頂けないので困ってしまうのだが・・・・