金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

日本の道路は多いのか少ないのか?

2008年04月05日 | 社会・経済

昨今の大きな話題は道路特定財源とガソリン等の暫定税率の廃止をめぐる問題である。昭和20年代後半にワトキンス・レポートが「日本の道路事情は信じがたい程に悪い」と報じたことを受け、1953年に議員立法で道路整備に関する臨時措置法が制定されたことが道路特定財源の始まりである。ところで最近テレビ等で識者と言われる人達の話を聞いていると「日本の道路は諸外国に比してもう十分に建設されている」という意見があった。この意見が正しいかどうか考えるスタート点として日本と諸外国の道路の長さの比較を行ってみた。(資料はCIAのFactbookによる)

日本の道路の長さの総合計は118万3千km、内舗装道路は92万5千km、高速道路は6,946kmだ。これを人口一人当たりで見ると、一人当たりの道路は9.28m(舗装道路は7.3m)、高速道路は0.055mとなる。また国土面積と道路の割合を見ると3.15(km/k㎡)となる。

同じ比率を英国とドイツについて見ると、英国は日本はかなり似た数値で一人当たり舗装道路は6.4m(英国では非舗装道路の長さが出ていない)、高速道路は0.058mである。大きな違いは国土に対する道路の割合で1.6となる。ドイツの特徴は一人当たり舗装道路は2.8mと日本の3分の1程度だが、高速道路は0.15mと日本の3倍程度あることだ。また国土との対比では舗装道路の占める割合は0.67と日本の5分の1程度である。

米国と日本を比較すると一人当たり舗装道路は米国は14.8mと日本の倍だ。高速道路は0.24mと日本の5倍近い。しかし国土面積との比較では米国は0.7と日本の4分の1程度だ。

以上のデータは道路の持つ輸送力(つまり車線の数や交差の状況等)を含んでいない。また道路輸送は鉄道輸送や水上輸送と代替・補完の関係にあるので、それらの普及状況も合わせて検討する必要がある。従ってこれだけのデータで日本の道路が諸外国に比べて十分建設されているかどうか判断することは難しいが次のようなことは推論できそうである。

  • 国土面積と舗装道路の長さの比率を見る限り、日本は諸外国の倍から5倍程度の道路の長さを持っている。このことは日本の道路の輸送能力が低い(車線が少ない、立体交差等が少ない)か、都市計画や道路計画が非効率であることが原因として推定される。
  • 高速道路に関して人口当たりの長さを比較すると、日本は英国とほぼ拮抗する0.055mとなっている。これはドイツやフランスの約3分の1、米国の5分の1である。

北海道や東北地方をドライブして思うことは「道が空いていて実に快適」「こんなところに高速道路が必要なのか?」ということだ。道路は産業の重要なインフラだが、道路を整備しただけで産業が発達する訳ではない。日本の道路行政の問題は道路の整備だけが一人歩きしていることではないだろうか?

過疎地域において莫大な費用をかけて高速道路を建設することも問題だ。むしろ既存の道路の整備や立体化等で費用対効果を図るべきであろう。

さて日本の道路は諸外国に比べて十分普及しているのだろうか?答はYesでありNoでもある。Yesの部分は国土面積や人口対比での舗装道路の普及状況。Noの部分は生活実感としての都市部の交通事情の悪さと高速道路の少なさ。しかしこれらの問題は新しい道路や高速道路の建設で解決するべき問題なのだろうか?私としてはこれらの問題は代替的交通手段(鉄道・飛行機あるいは水運)との組み合わせなどにより解決を図ることを優先して考えるべきだと思っている。残念ながらそれが長年にわたる無策な都市計画と道路計画のつけを払う方法なのであろう。

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夜明けのバイブル

2008年04月05日 | うんちく・小ネタ

入院している時は朝5時頃に目が覚めることが多かった。9時過ぎには消灯しているのでどうしても早起きをしてしまった。早く目が覚めた時、時々新約聖書を読んだ。クリスチャンでもない私が何故聖書を読んだか?というと入院中一つ位は硬い本を読もうと思い、ワイフに机の近くにある聖書を持ってきて貰った次第である。聖書でなくても「老子」でも「歎異抄」でも良かったのだが、偶々聖書が一番見つけ易いところにあったという程度の話である。

聖書の中の「ルカによる福音書」に「愚かな金持ちのたとえ」という話がある。話の筋はこうだ。「豊作になった時ある金持ちが作物をしまっておく場所がない、どうしようと思い巡らし、倉庫を建て替えて大きくすることにした。金持ちは『さあ、これで何年分ものたくわえができたぞ。食べたり飲んだりして楽しめ」と思った。しかし神は『愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前の用意したものはいったいだれのもになるのか』と言われた。」

今回のように突然病気になり、暫く入院するような事態になると「人の運命なんて少し先のことは分からないものだなぁ」ということを実感する。平均寿命が延びた、これからは人生80年の時代などというがそれはあくまで平均の話であり、個々の人にはそれぞれの寿命というものがあり、それを完全に予知することは不可能である。死が予測できないことについて徒然草はこう述べている。「生老病死の移り来ること、またこれに過ぎたり。四季はなお定まれるついであり。死期(しご)はついでを待たず」~一生において生老病死の四苦が交代してやってくるさまは、四季の変化よりも早い。死期の変化には春夏秋冬の決まった順序があるが、人間の死期は順序をまたずに突然やって来る~

このような認識の下、兼好法師はどう生きるのが良いと言ったのか?それは「自分の外に向かってあれこれ求めず、今自分がやるべきことをやれ」というものだ。徒然草の171段は「よろずのこと、外に向きて求むべからず、ただここもとを正しくすべし」と述べている。

予測のつかない寿命について聖書はこう教える。「思い悩むな。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」「ただ神の国を求めて財産を売り払って貧しい人に施しをしなさい」

退院して帰宅すると以前から時々寄付をしている「ネパールに小学校を建設する」NPOからの寄付依頼が送られていた。私はいつもより少し大目に寄付をすることにした。その程度の寄付で天国に行くとは思えないが、地獄にまっ逆さまに落ちることを避ける程度の効果はあるかもしれない・・・と私は考えている。

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