この前のネパールトレッキングで小さなハプニングがありました。
私が少し先行していた時、同行のNさんが小走りでやって来て「子どもに写真代を500ルピーだと迫られて困っている」というのです。私は少し前からNさんがやたらと現地の子どもや大人たちの写真を撮っていることに多少の不安と微細な違和感を感じていたものですから、少し事態を静観しようと思っていました。だって500ルピー(邦貨で500円)は法外な要求ですが、子どもにも肖像権はありますから、大人が黙って写真を撮って良いというものではない、と私は思ったからです。
Nさんが多少苦労しながらでも自分で問題を解決した方が薬になる、と思ったのですが、結局現地人ガイドが子どもを追い払い問題は解決しました。
その時私は40年前に自分が経験したある苦い思い出を思い出していました。
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それはまだ私が大学生だった頃のこと。カラコルムの未踏峰遠征の後私は一人でパキスタンの中部を旅していました。それはモヘンジョダロ遺跡近くの鉄道の駅での出来事です。パキスタンの鉄道は時刻表通りには走らない。だから乗客特に下級車両の乗客は生活必需品を担いで列車に乗ります。その風景が興味深くカメラを向けたところ、ある男性から私は注意を向けました。
「君は好奇心から列車待ちの風景を撮ろうとしている。だが撮るべきではない。君の住む日本に比べると我々の生活は劣っている。だが我々は一生懸命努力している。我々は自分たちに醜い部分があることを知っている。そこは知られたくないし写真に撮ってほしくない。」というものでした。
私は自分の浅はかな思いを素直にわびました。
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時は流れました。この時のエピソードを思い出すことは少なくなりましたが、私の心のどこかに「世界の人々はそれぞれの発達段階を精一杯に生きている。上から目線でものを見てはいけない。それは神様が人間に、いや総ての生物の発展のために与えてくれたdiversity(多様性)の結果なのである。」という思いは生き続けました。
ここでいう神様はキリスト教の神様や神道の神様を越えた「宇宙神」あるいは「生命の根源」という意味です。我々生き物は環境変化に対応できるように、多様化するような仕組みが内在している、私は思うのです。
平野を好む民もあれば山地を好む民もある。乾燥したステップを好む民もあれば、湿潤な森を好む民もいる。それによって地球環境が変化しても人類全体としては生き伸びることができるようになっていると私は思うのです。
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話が長くなりました。
ネパールのような発展途上国を歩いていると、我々の生活習慣と違う暮らしぶりを見かけついシャッターを切りたくなります。だがその前にちょっと考えてみましょう。
我々にその権利はあるのでしょうか?
もしあなたが日本の自宅の庭で何かをしている時誰かにいきなりシャッターを切られたらどんな氣がしますか?
まして見られたくないと思っているような行為を写真に撮られたとするとどんな氣がしますか?激しい怒りを覚えるのではないでしょうか?
「興味本位」というのは、私は相手のHumanityを尊重した態度ではない、と思うのです。
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我々はDiversityということをもう少し突っ込んで考える必要があるでしょう。そうすると今の先進国の優位性は長い生物や人類の歴史の中のホンの2,3百年の現象に過ぎないことが見えてきます。我々はもう少し謙虚になるべきなのでしょう。
村人や子どもの写真を絶対に撮ってはいけないとは言いませんが、シャッターを切る前に「自分はなぜその写真を撮ろうとするのか」と問い、もし必要であればその理由を告げて相手に了解を求める謙虚を持つ必要があると思います。