一昨日家内と京都に短い里帰りに出かけた。家内は太秦の両親の菩提寺に墓参りに行くことにしていたが、直前にそのお寺の若い住職が急死したことが分かった。住職がいないと塔婆を書いてもらうことができない。たまたま私の弟が別の宗派の僧侶をしているので、塔婆は弟に頼んだらどうだ?と私は言った。
ところが家内は「母親の戒名は覚えているが父親の戒名は覚えていない」という。弟に相談すると「俗名〇〇と書いておけばよい」というので、その塔婆をもって家内は無事墓参を終えたようである。
墓参りに行くと戒名が刻まれた墓が多い。本来戒名というものは、仏教の修行を積み、あるレベルに達した人が修行を終えた証として貰うものだが、江戸時代から形式化した。
江戸時代の戒名は身分制度と連動し、大名は院殿大居士、上級武士は院居士、下級武士・農民・町人は信士号と決まっていたようである。
私も義父の戒名を正確には覚えていないが、院居士号がついていたと思う。お寺にそこそこ戒名料を払ったので、少し格の高い戒名を貰ったようだ。
戒名というのは、お寺が収入を増やすために考えついた仕組みで、インフレ傾向にある。檀家離れが進む中、寺院経営も苦しくなっているので、お寺側の事情も斟酌する必要はあるが、仏教の教義上は不要のものである。
実際毎日お位牌にお供えをしてお経をあげる篤信の人であれば、親の戒名を覚えているだろうが、家内のような一般の人は親の戒名を忘れてしまうだろう。救いはその時は「俗名〇〇と書いておけばよい」という弟の言葉である。それでも祈りの気持ちは通じるのだろう。
であれば戒名に値するほど仏道修行を積んだ人以外には戒名はいらないと断じて良いと私は思っている。