金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

戒名の怪?

2016年07月31日 | うんちく・小ネタ

一昨日家内と京都に短い里帰りに出かけた。家内は太秦の両親の菩提寺に墓参りに行くことにしていたが、直前にそのお寺の若い住職が急死したことが分かった。住職がいないと塔婆を書いてもらうことができない。たまたま私の弟が別の宗派の僧侶をしているので、塔婆は弟に頼んだらどうだ?と私は言った。

ところが家内は「母親の戒名は覚えているが父親の戒名は覚えていない」という。弟に相談すると「俗名〇〇と書いておけばよい」というので、その塔婆をもって家内は無事墓参を終えたようである。

墓参りに行くと戒名が刻まれた墓が多い。本来戒名というものは、仏教の修行を積み、あるレベルに達した人が修行を終えた証として貰うものだが、江戸時代から形式化した。

江戸時代の戒名は身分制度と連動し、大名は院殿大居士、上級武士は院居士、下級武士・農民・町人は信士号と決まっていたようである。

私も義父の戒名を正確には覚えていないが、院居士号がついていたと思う。お寺にそこそこ戒名料を払ったので、少し格の高い戒名を貰ったようだ。

戒名というのは、お寺が収入を増やすために考えついた仕組みで、インフレ傾向にある。檀家離れが進む中、寺院経営も苦しくなっているので、お寺側の事情も斟酌する必要はあるが、仏教の教義上は不要のものである。

実際毎日お位牌にお供えをしてお経をあげる篤信の人であれば、親の戒名を覚えているだろうが、家内のような一般の人は親の戒名を忘れてしまうだろう。救いはその時は「俗名〇〇と書いておけばよい」という弟の言葉である。それでも祈りの気持ちは通じるのだろう。

であれば戒名に値するほど仏道修行を積んだ人以外には戒名はいらないと断じて良いと私は思っている。

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お墓参りで考えた私の宗教論

2016年07月31日 | うんちく・小ネタ

昨日某NPO団体の会合に出席するため西宮に行った。会議は午後だったので午前中満池谷墓地の祖父母・叔父の墓参りに行った。京都に住み父母は数年前までは時々西宮まで墓参りに行っていたが、足腰が弱りこのところ墓参りに行っていないので、代参もかねてお参りした次第だ。

「墓をどう考えるか」という点について、理屈の上では私は「墓は不要である」という考え方を取っている。「理屈の上では」というのは、私は緩やかな意味での仏教徒であり、すべての生命は輪廻転生すると考えているということである。

仮にすべての命は輪廻転生するものとすれば、死んだ人たちの魂は何かに生まれ変わり、どこかで生き続けているので、お墓の中には、単なる骨が入っているに過ぎない。インドやネパールの仏教徒や広い意味で仏教と同根と考えられるヒンドゥ教では、死者は火葬された後、遺骨は川に流され、墓が作られることはない。輪廻転生を信じる彼らにとって、遺骸は魂の抜け殻に過ぎず、極端にいうと蛇の抜け殻程度の意味しかないのである。だから墓は不要なのである。

一方火葬を忌避するキリスト教やイスラム教では遺骸は土葬される。これは遺骸がないと最後の裁きを受けた後、天国に行くことができないと考えられているからだ。

この点に注目すると仏教やヒンドゥ教とキリスト教やイスラム教はずいぶん違った宗教のように見える。

しかし私は「宗教観や死生観の違いを決めたのは、死者の埋葬方法の違いであり、宗教の違いが死者の埋葬方法を分けたのではない」という大胆な仮説を取っている。

つまり中東の乾燥した砂漠地帯では、死者を火葬する薪を準備することが困難なので、村はずれに埋葬した。一方高温多湿で人口密度の高いインドでは、死者を土葬することは衛生面の問題があったので、火葬することが勧められた。その埋葬方法を宗教的に意味づけるために、壮大な宗教的仮説が構築されたのではないか?という考え方を私はとっている。

古代の日本では土葬が一般的だったが、縄文遺跡の中からは火葬された人骨も出ているので、火葬も行われていたようだ。

日本で火葬が普及するのは持統天皇が仏教の教えに従い火葬を強く希望し、火葬されたことに始まるといわれている。その後天皇の葬法は火葬が長く続いたが、江戸時代から再び土葬になった。昭和天皇は火葬された。約400年ぶりの火葬の復活といわれている。

祖父母の墓に手を合わせながら、子供のころ祖父母に連れられた夙川付近をよく散歩したり、市場に買い物に出かけたことを思い出していた。

「理屈の上では墓は不要」という立場を取りながらも、人情の上では時々お墓参りをすることは良いことだと私は考えている。それは亡くなった人のことを思い出しながら、自分の過ごしてきた過去を振り返る機会であるからだ。過去を振り返るということは、自分の命は決して自分だけのものでなく、連綿とした命の連環の上にあるということを、実感することである。

「濃い宗教」~宗教的信念と宗教的活動の実践~を持たない私たちにとって、宗教的習慣であるお墓参りの意味はあると改めて感じた。

宗教は単なる理屈ではなく、理論的な矛盾を包含した社会的慣習であると捉えるならば、季節のお墓参りも大いに意味があると考えながら、私は暑い満池谷墓地を後にした。

 

 

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