昨日ブログで「日本三大峡谷」に触れ、その流れで「日本三大うどん」の話を書いた。
今日はさらにその流れで「日本三大〇〇」を考察してみようと考えた。考察というと大袈裟に聞こえるが、実のところは本棚の中にある「『日本三大』なるほど雑学事典」を読み返してみた程度の話なのだが。
その雑学事典に「なぜ日本人は三大にこだわるのか?」というコラムがある。それによると「三という数字は人間にとって馴染み深く、三大の座りのよさは際立つ。区切りでいえば、五大や十大も捨て難いが、すべて覚えて暗証するにはやや多すぎる。」ということだ。
これはある程度納得がいく説明だが、「他の国には三大〇〇はないのか?」ということにも言及して欲しかったと思う。
私の限られた海外旅行の経験からいうと、諸外国で三景、三名瀑などという表現は聞いたことがない。
世界三大河川(アマゾン川・ナイル川・ミシシッピー川)などという表現があるが、これは日本人が勝手に選んだもので、外国では全く通用しない。
以上の点から「日本人は他の国の人より三大〇〇が好き」と私は推測している。
では何故日本人は三大〇〇が好きなのか?ということを考えると、私は三大〇〇にはある種の思考停止機能があるからだ、と考えている。
どこか観光地を旅行したいと思う時、「あそこは三大〇〇だから行こう」「前に三大〇〇の内、2つは行ったから残りのここに行こう」などと目標が立てやすいのである。
そもそも三大〇〇の大部分は「誰がどのような基準で選んだのか」はっきりしないものが多い。いやむしろ根拠がはっきりしているものは極めて少ないだろう。例えば「日本三景(松島・天橋立・宮島)」は江戸初期の儒学者・林春斎が日本国事跡考でこれらの名前を挙げたのが始まりとされるが、これなど出所がはっきりしている例外と考えた方が良い。
従って多く三大〇〇には異説がある。例えば日本三名瀑では「華厳の滝・那智の滝・袋田の滝」をあげる人が多いが、袋田の滝が立山の称名滝や宮城県の秋保大滝に入れ替わっている場合もある。
「類型をまとめるのが好き」というのも日本人の特徴かもしれない。例えば「西国三十三観音」「四国八十八箇所」などだ。最近のものでは深田久弥の「日本百名山」なども類型をまとめたものである。
これら類型をまとめたグループを順繰り訪問することは、広義の趣味の世界で「目標設定とプロセス管理の手間を省く」効果があると私は考えている。
もちろん登山の世界では目標の高いところでは「世界の8千メートル峰に登る」とか「台湾の3千メートル峰に登る」といった数を目標としている人はいる。ただこれらの類型は基準が客観的な場合が多いが、日本の数モノは選定基準があいまいなのが特徴だろう。
あいまいな基準で選択された三大〇〇などが独り歩きし、サラリーマン時代に目標数字に追いかけられて苦労した元サラリーマンが趣味の世界で数字を追いかける・・・・ひょっとするとそこに日本人の特性があるかもしれないし、そもそも人間とはそのようなものなのかもしれない。