「倫理遺言」というのはEthical willの直訳だが、簡単にいうと自分が死んだあと「家族や友人に伝えたいこと」である。
民法で遺言書というと遺産の受取人やその受取割合を指定した書類で定められた形式を満たしていないと法的には有効とみなされない。一方倫理遺言は財産以外のことで伝えたいことを書き残すものであり、法的な要件もないし遺族に対する拘束力もない。
内容としては「感謝の気持ちなど伝えたいこと」「ファミリーヒストリーに関する情報」「やって欲しいこと」などである。「やって欲しいこと」の中には遺骨をどこそこに埋葬してくれなどという希望も含まれる。
以前ネパールの奥地にトレッキングに行ったとき、亡くなった先輩が息子さんに「遺骨の一部をヒマラヤの氷河の下部に散骨して欲しい」という希望を残し、その息子さんと同行して散骨したことがある。偶々元気な息子さんで標高4千メートルの高所まで登ることができたが、余り難度の高い要求を残して残された家族に負担をかけるのは好ましくないだろう。
最近読んだ米紙では「コロナウイルスで突然死をすることが増えているので倫理遺言をしておく方が良い」と書いている。これは色々な国からの移民で成り立っているアメリカでは自分のルーツを大切にする傾向が強いので、ファミリーヒストリーを子や孫に伝えるのが年寄りの役割と考えられているからだ。
昔の日本では檀家寺に行けば先祖を辿ることができたが、現在では檀家寺とのつながりも薄くなり、日本でも誰かが伝えないとファミリーヒストリーが分からなくなる可能性が高い。
ところでなぜファミリーヒストリーを気にするか?というと、我々は意識するかしないかは別として2つの命を生きていることを本源的に知っているからだと私は思う。
2つの命というのは「個体としての自分の命」と「遺伝子というバトンをつなぐリレー走者としての命」である。生命が誕生してから途切れることなく、遺伝子はつながっている。イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」という言葉で、我々は遺伝子を将来につないでいく乗り物であると述べた。自分の子孫を大切にしようという気持ちは持続可能な経済と社会の発展を進める上で重要なことだ。
だが改めてまとまった文章で倫理遺言を書くことには抵抗のある人も多いのではないか?と思う。「自伝」や「自分史」を書いている人であればそれが倫理遺言になるし、日記や子どもたちとのメールのやり取りなども一種の倫理遺言であり、それらのことを行っている人はわざわざ書く必要はないと思う。
しかしながらそれらの書き物を残していない人は何等かの書き物を残す方が良いのではないか?と私は考えている。
そして一番簡単な方法は、これまで撮り溜めてきた写真をクラウド上に整理して家族で共有するのが良いのではないか?と私は考えている。
写真にコメントを加えていくことで、比較的手軽に写真版ファミリーヒストリーを作ることができるだろう。そして自分たちの命が自分だけのものではなく、将来にバトンを渡すリレー走者の命でもあることを伝えることができると世界は良い方に向かうのではないだろうか?