先月ネパールのムスタン地方をトレッキングしてチベット仏教のお寺(ゴンパ)など仏教関連の施設や遺跡をいくつか拝観しました。ガイドが50代半ばの仏教徒で色々説明してくれたこともあり、これを機会に仏教を少し勉強してみようと考えた次第です。
一言に仏教といっても日頃目にする日本の仏教のような「大乗仏教」スリランカやタイなどで信仰されている「上座部仏教」そしてチベットやネパールで信仰されている「金剛乗仏教」という3つの流れがあります。金剛乗仏教は密教とも言われ真言密教とも関係が深いそうです。
元々はお釈迦様が説いた教えからこのような分派が生まれたのですが、まず原点に返ってお釈迦様が説いたことは何だったのか?ということを学んでみることにしました。これについては膨大なテクストがあるのでしょうが、近くの図書館で目についたのが「仏教の誕生」(佐々木閑著 河出新書)でした。この本は花園大学教授の佐々木さんが、コロナで対面授業ができなくなったときに、その代替としてYou Tube動画を配信していたものを書籍化したもので、すらすらと読むことができました。
すらすらと読めた本ですが、私にとっては「目から鱗が落ちる」ところがありました。
それは「仏教という宗教は、けっしてその教えを人類全体に広めるために存在しているのではありません。」「そうではなくて、進歩や夢を目標として生きることができなくなった人、もっというと生きることに絶望を感じている人たちの受け皿として、この世に現れてきたのです。お釈迦さま自身がそのことはよく理解した上で仏教という宗教組織をお作りになりました。」というところです。
佐々木さんは「世の中は努力していっても最終的には裏切られるのである。人の思惑とは無関係に動いていくこの世の中で、自分の欲にかられた希望の世界を望むこと自体、虚しい行為なのである。・・・世の中の動きを正しく理解し、その中で自分の心の安楽を求めようとするならば、その道は一つしかない。それは求めないことだ。これが釈迦の真意です。」と説明されています。
佐々木さんの説明が現在の仏教の姿を示しているか?というとかなり疑問があります。ネパールでこそ仏教徒の割合は1割程度で大部分の国民はヒンドゥ教徒ですが、日本やタイなどでは仏教徒の割合は高いと思います。
皆が皆、欲望を捨てて心の安楽を求めているとは思いません。むしろ健康、商売繁盛、受験合格など極めて世俗的な欲望、欲求を持ってお寺にお詣りしている人も多いと思います。もっとも商売繁盛などを司るのは毘沙門天などインドの神様出身の仏ですから、お釈迦様の本意とはかけ離れているのかもしれません。
また日本についていうと「仏教が生きることに絶望した人たちの受け皿になっていないから、絶望した人たちは新興宗教に走る」という現象も大きいと思います。
私自身は仏教についてそこまで突き詰めて考えることはありません。突き詰めて考えすぎると「出家」の道しかなるなるからです。「在家」のまま仏教の良いところを取り入れた考え方や生き方があってよいと思います。
それは「欲望を捨て去るのではなく、ほどほどに抑える」という考え方です。また芸術家や作家のように自分の努力が報われる人もいれば、出世を目指したサラリーマンのように努力が報われない人もいると考えています。
つまり夢や欲望の中には、人のためになるということを通じて報われるものもあればそうでないものもある、ということです。お釈迦様のお話も自分なりの理解で考える・・・ということですが、これでは勉強になるのかどうか分かりませんね。